<公孫瓚>

曹操の後を継いだ張邈軍団の
一回目の「軍団評定」を開催



都督の張邈自ら、
南皮、甘陵、小沛、広陵、下邳
五都市の攻略を提案し、
皆が賛成したので決裁する。

親友の曹操の敵討ちに燃えているのか、
随分と大きく出たものだ。
期待しているぞ張邈

次に鮑信軍団の、
三回目の「軍団評定」を開催



こちらも都督の鮑信自ら、
広陵の攻略を提案したので、
皆が賛成し、これを決裁する。

五ヶ月後、広陵を陥落させ、
鮑信軍団は使命を達成。

九ヶ月後、
鮑信軍団が陥落させた広陵を除く、
南皮、甘陵、小沛、下邳
四都市を陥落させ、
張邈軍団も使命を達成する。

見事だ、張邈
都督しての能力は曹操と比べ、
なんら遜色ない。

軍団使命達成の間に、
君主内政重臣の劉馥
病死してしまったので、
後任に楊彪を任命する。

212年7月
孫朗軍の重臣で、曹操の仇である、
周瑜が病死。

仇は討てなかったが仕方がない。
だがこれで、孫朗軍もお終いよ。

鮑信軍団の、
三回目の「軍団評定」を開催



孫朗軍との決戦を
主張する者がいるので、
朕が提案することを控えたが、
皆は淳于瓊の提案する臨機応変
賛同したため、これを決裁する。

さすがに時期尚早であったか。

張邈軍団の「軍団評定」を
開催する前に、

捕虜の中から、
孫朗の異母兄で、孫堅の長男の孫策
孫朗軍の淩操、淩統の親子、杜畿
朕を仇と狙う、馬騰の息子の馬休
同じく、馬騰の義兄弟の韓遂を処断。



馬氏はまだ馬超が残っていたか…

張邈軍団の、
二回目の「軍団評定」を開催



公孫瓚孫朗軍の
を陥落させたので、
朕自ら提案する、
公孫瓚の支配する薊、北平
攻略を決裁する。

を陥落させ、
北平を攻略している最中の
212年11月
韓王朝の丞相、蔡邕が病死。



我が王朝の最大の功労者を
失ってしまった…

この後、誰が一品官に
なれるというのか…

半年余りで、
に続き北平も陥落。

北平陥落時に捕虜にした
公孫瓚を処断する。



(従)弟の公孫越も捕虜にした後、
処断したので。
公孫瓚軍は、子の公孫続が後継。

車騎将軍の曹操に続いて、
丞相の蔡邕まで失ったので、
孫朗、公孫瓚との戦いで
功績のあった黄忠らの官爵を昇格。
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黄忠を車騎将軍

張郃を征東将軍
高順を征南将軍
文醜を征西将軍
曹仁を征北将軍

関羽を鎮東将軍
甘寧を安北将軍
張飛を平東将軍
呂蒙を前将軍
何殷を左将軍
龐徳を右将軍
魏延を安国将軍

陳震を衛尉
司馬朗を中常侍
辛評を侍中
諸葛亮を太学博士
徐庶を軍師将軍
張超を黄門侍郎
張既を太中大夫
満寵を諫議大夫
龐統を別駕
程昱を功曹
寠圭を主簿
黄権を治中
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末子の何殷も前線で
功績を上げているので、
左将軍に昇格させる。

213年か
何進が189年に暗殺(不自然死)だから、
+20年で209年
名品「老君入山符」では
寿命が足りない気がするんだが…