<禅譲>

五回目の「軍団評定」を開催



臨機応変と内政充実を
提案してきたので
何進自ら、
孫堅濮陽士徽交趾
攻略を提案し、
皆の賛成を得たので決裁する。

白馬での激戦、続く濮陽での攻防
一年半に渡る戦いを制し、
濮陽を陥落させる。

しかし、
建寧近郊に南蛮大王が
出現したこともあり
交趾の攻略には失敗してしまう。

濮陽で捕虜とした
孫堅股肱の臣、程普
孫堅の次男、孫権
孫堅軍の紀霊を処断する。



六回目の「軍団評定」を開催



曹操士徽の打倒を
提案してきたが、
孫堅に回復の暇を与えたくは
ないので、の攻略を提案する。

皆が賛成してくれ、
の都市攻略を決裁する。

攻略中の
206年1月
貂蝉との息子、何殷が成人する。
(武力は劣るが父に比べればこれでも優秀か)
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


何殷(奉盛): (貂蝉との息子)
統率:89、武力:27、知力:66、政治:50
理想威名:忠勇義烈、重臣特性:敵中作敵
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

206年2月
匈奴単于によって中山が陥落し、
呂布軍が滅亡する。

匈奴に滅ぼされるとは、
呂布とは阿呆じゃな。

206年5月
を陥落させ、
軍団使命が達成される。

で捕虜とした
孫堅の三男、孫翊
孫堅軍の魯粛を処断。

孫堅との戦いで功績を上げ、
二品官に昇格した曹操
新たに都督に任命し、
曹操軍団を新設





蔡邕には益州を、
曹操には残る全ての地を
任せることとする。

都督なった曹操の官爵を
車騎将軍に昇格させる。

蔡邕に不満はないが、
治世の能臣、曹操ならば
期待以上の働きをしてくれるはず。

さっそく軍団評定を
開催しようとした翌月、
孫堅がまたしても反何進連合を結成



もはや孫堅など敵ではない。

反何進連合に参加した士徽
捕虜としたので処断する。

叔父の士壱士徽軍を後継。

何の成果もないまま
反何進連合は解散

何進は捕虜の中から、
士壱の子の士匡
孫堅の甥の孫皎
孫堅軍の許攸
劉璋軍の閻柔を処断。

蔡邕軍団の
七回目の「軍団評定」を開催



士壱軍の勢力打倒には誰も賛同せず、
軍団使命は臨機応変となる

代わりに、
曹操軍団の
一回目の「軍団評定」が開催され、
都督の曹操が提案する
士壱軍の勢力打倒が賛成多数で
採決される。



さすが曹操
敵である宦官の孫ではあるが、
重用した甲斐があったというもの。

すぐに合浦、南海が陥落。

南海陥落時に捕虜となった
士壱を処断。



重臣の辛毘が後継する。

交州平定も目前となった
207年12月
何進は甥の少帝より禅譲を受け、
肉屋の主人だった男は、
韓王朝を建国する。









(何姓はもとは韓氏だったという
 話があるので、国号は韓でよかろう)

---
甥の少帝を助け、
漢王室を守るのかと思っていたが、
少帝でも禅譲イベントは発生し、
何進は肉屋の主人から
皇帝へと昇りつめたか。

後は死ぬ前にエンディングを。