<火攻篇>

合於利而動、不合於利而止

229年10月
公孫勝攻略へ出陣。



陥落後、北平も陥落させ、
公孫勝襄平へ向かう。

その間に、
関索北海を陥落
孫権琅邪を陥落させたため、
襄平曹丕軍との最後の戦いとなる。



倍の兵力を擁する公孫勝
最期まで戦いを有利に進め、
230年7月
公孫勝襄平を陥落させ、
曹丕軍は滅亡する

荀彧荀攸司馬懿らが
登用に応じ、馬騰軍に加わる。

かつての敵も同輩か、
儂の地位を脅かす者が
この中から現れるのだろうか…

230年8月
かつて献帝を擁した曹操
後継である曹丕の勢力を
滅ぼした馬騰に、
漢帝より禅譲の詔勅が下る

公孫勝関羽と共に
重臣筆頭として馬騰を説得し、
禅譲を受けることを決意させる。



そして、
馬騰は漢帝より禅譲を受け
虞王朝を建てる





(虞?涼ではないのか)
(今の本拠は山西省だから?)

虞建国の功臣となった公孫勝は、
大司馬に昇格する



丞相には諸葛亮が就任し、
関羽は大将軍となる。



虞建国後の勢力評定で、
皇帝である馬騰自ら提案する
都市攻略が採決される。



建国したばかりというのに
忙しいことだ…

蘆江諸葛亮下邳張遼
琅邪公孫勝建業徐庶
出陣する。

二ヶ月後に蘆江が陥落
さらに翌月、琅邪下邳も陥落

五ヶ月後の
231年4月
孫呉の本拠地、建業も陥落し、
虞の勢力使命は達成される。

翌月、
馬騰の息子、馬休が病死する。

子息の病死に気兼ねしたのか、
直後の勢力評定は、
皆が軍備充実に賛成し、
虞王朝は孫呉への侵攻を停止する。



さらに翌年の勢力評定も
馬騰が軍備充実を望み、
孫呉への侵攻は行われることなく、
馬休の死から
二年の月日が経過する。



侵攻を停止してから
三回目の勢力評定。

公孫勝は、
翌年に孫の公孫策が成人し
世に出ることを考え、
侵攻をさらに一年遅らせることを
画策し、内政充実を提案。



孫呉の打倒を提案する
丞相の諸葛亮を舌戦で制し、
一年の猶予を得る。



翌年、
成人し在野として
桂陽で暮らす孫の公孫策を、
公孫勝自ら出向き登用する



(孫だが、親である公孫龍が
 病死しているので在野なのか)

次男の公孫虎は四品官、官爵なし
三男の公孫豹は五品官、官爵なし
四男の公孫熊は四品官、官爵なし
五男の公孫鮪は五品官、官爵なし
長女の公孫燕は四品官、官爵なし
次女の公孫鳬は六品官、官爵なし

いずれも官爵はなしか、
孫に期待するしかないのう。

公孫策を登用している間に、
徐庶荀彧が病死する。

共に戦った徐庶と、
敵として戦った荀彧が死んだか。

さらに
234年11月
虞の初代皇帝、馬騰が崩御する。





長男の馬超が後継し、
虞の二代皇帝となる。

儂が一年延ばしたばかりに、
天下統一を目前にして死すとは…

すまぬ、馬騰

さらに訃報は続き、
235年1月
虞の丞相、諸葛亮が病死。





儂に欠けている政才を持ち、
虞王朝を背負って立つ男が先に逝くか。

空いた丞相の席には、
亡き先代皇帝の義兄、韓遂が就任する。



韓遂、まだ生きておるのか…

儂もすでに齢八十、
早々に決着をつけねばならんのう。

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思ったより進行が早かったのか
天下統一を目前にして
やっと孫が登場する年になった。

孫の活躍を見たいところだが、
これ以上伸ばすと
馬騰に続いて馬超も死んでしまう。

もう終わりにするか。