<行軍篇>

兵非益多也



勢力評定が開かれ、
劉備の提案する
孫権軍との同盟締結が採用される。





儂も含め、皆、関羽の提案する
内政充実に賛成したのだがのう…

評定後に袁尚中山攻略を
相談されたので賛成する。

曹操軍に落とされ、
孤立した中山
早々に手に入れておかねばな。

孫権軍との同盟締結の任務を、
軍師の権限で、四男の公孫熊
やらせてみることにする。



「交渉」の特技は持たぬが、
貸恩義もあるのだ、
必ずや成功しよう。

暇のできた公孫勝は、
自分に匹敵する軍才を持つ、
桂陽太守の諸葛亮を訪ね
交友を深め、朋友となる

219年3月
朋友となった諸葛亮から
統率の師事を受けている最中、
公孫勝許昌攻略の出陣命令が届く。



だれが計画したか知らぬが、
馬超らの主力が襄陽方面から
攻め込むのに対し、
儂にはわずかな手勢で、
虎牢関から進軍せよというのか…

それでは許昌に到達する前に
の城塞で軍勢を
壊滅させられてしまう。

君命とあらば従うべきだが、
儂はこの戦の総大将でもある。
敗戦の咎を受けるのは
御免こうむりたい。

「将、外にあっては、
 君命も奉ぜざるあり」

軍の編成を
「象兵」から「精鋭騎兵」に変更し
機動力を上げ、弘農を経由して、
で士気を回復した後、
許昌近郊での戦いを終えた
馬超らの主力軍に合流
儂の指揮の下、
許昌への攻撃を開始する。



一方、
馬騰軍の許昌侵攻に
孫権は素早く対応し、
呂蒙勢らを長沙へ向け
出陣させてくる。

四男の公孫熊に任せていた
孫権軍との同盟締結は
ご破算となってしまったか。

許昌攻略の作戦開始が早すぎたのだ。
なぜ同盟締結の後にしなかったのか…
同盟締結を提案した劉備
功を立てさせたくない者でもいるのか?

長沙の守備は、主力が許昌にいるため、
おそらく無理であろうが、
全てを諸葛亮らに任せ、
公孫勝許昌攻略に集中する。



想定より孫権の進軍は早く、
許昌での戦闘中に長沙は落ち、
さらに新野まで落とされる。

次々と現れる増援部隊を退けながら、
終始、戦闘を有利に進め
219年9月
公孫勝許昌を陥落させる



馬騰軍は再び、
後漢皇帝を擁立する

奪還に来た司馬懿らの軍勢も退け、
許昌の支配を確立した
219年12月
馬騰は後漢皇帝より王に任命される

劉氏ではない異姓の王が
立つことになったが、
馬騰の先祖は、後漢の名将馬援
馬援の娘は明帝の皇后。

言わば、馬氏は婚族のようなもの。
許されるであろう。

同月、
韓遂諸葛亮の策かは知らぬが、
龐統の交渉により、
馬騰軍と孫権軍の停戦が成立する。

曹操軍も被害が
大きく反撃する余力はあるまい。

こちらの被害も少なくはない、
公孫勝はこれ以上の進軍を諦め、
全部隊を解散する。

-‐‐
意図した戦いではなかったが、
中山、許昌を得て、、
長沙、新野を失ったか…

しかし、許昌を奪ったのは大きい。

そろそろ、曹操の寿命が尽き、
勝ち逃げされそうだったからな。

それにしても、
ちょっと留守にすると
勝手をされてしまう、
しばらく、
洛陽を留守にはしない方が
よさそうだな。