世の中の進化に助けられる‼️ᕦ(ò_óˇ)ᕤ
写真のレンズはLeica Thambar 90mm f/2.2と言う戦戦に作られたライカのレンズです。
昔、軟焦点レンズ(軟焦点レンズとは、一般の写真レンズが各収差を可能な限り減らしてシャープに写るように設計されているのに対し、故意に収差を残し、ピントが合った像が軟かいものとなるように設計されている写真レンズです)が女性ポートレート撮影によく使われていました。Rodenstock imagon とかWOLLENSAKとかNicola Perscheid とかの大判カメラ用レンズが有名ですが、ライカもこの Thambarと言う35mmカメラ用のレンズを1935年から販売しました。
木村伊兵衛さんが日独共同制作映画"新しき土"(昭和12年上映)のスチルカメラマンを務めており、撮影途中の原節子さんを撮影されたレンズとして、日本でも知られるようになりました。
軟焦点というからには、ピントが甘い訳ですから、今の一眼レフの様にレンズからの画像を見ながらピント合わせをするカメラでは使い難いレンズです。当時はレンジファインダーと言う距離計を搭載したカメラで距離計でピントの合う範囲を決め撮影する為に、レンズからの画像を見ない方法で撮影していました。
しかし、今の一眼レフカメラで、ピント合わせをやろうとすると、中々ピントの山を掴めません。
しかし、しかし、時代の進化は素晴らしいです❣️
何と戦戦のこのThambarがオートフォーカスで使えるアダプターが発売されているんです。
僕がThambarで撮影した女性ポートレートをご覧ください❣️ピントはAFでバッチリです‼️
コロナの所為で最近撮影する機会が減っているのが、残念です💢💪😡💦























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僕が小学生の頃、ウオルトディズニーの"海底2万マイル"という映画がありました。確か1954年に作られた映画です。

この映画を映画館で観て、ノーチラス号や、その操縦室や機関室を見て、ワクワクしたのを今でも思い出します。

それから時が経ち、十年ほど前に、ネット上でこんな腕時計を見つけ購入しちゃいました。三千円弱の安物の時計です。

その時、スチームパンクと言う言葉を初めてしりましたが、何でも英国の産業革命時代に、全てが蒸気機関で動いた当時のイメージから生まれたデザインなのだそうです。

 

 

1980年代には日本へも伝わり、日本人女性もこれをファッションにしていた方々もおられたとか!

そこで調べてみると、ファッションだけではなく、部屋の装飾、様々な生活用品や雑貨にもこのデザインが反映されているものがあることが解りました。映画にも登場していることも解りました。

マッドマックス"怒りのデス・ロード"とか、シルヴェスター・スタローン主演の"ジャッジ・ドレット゜"などにスチームパンクのキャラクターが登場してます。

ネット通販のwishに何とスチームパンク・デザインの雑貨がたくさん売られていました。更にはそれらを自作する為のパーツも売られておりました。

売られていたイヤリングです。

売られていた腕時計(らしき物)です。

僕はクラシック・カメラの趣味もありますから、古いカメラを修理する道具もありますので、これらを購入して、腕時計でも作ってみようかと考えたのです。

写真は僕の作業机です。

そして、ついに完成したのが、これらの腕時計です。

義理の妹から、『お兄さん!、私にもイヤリングを作ってよ!!』と言われましたから、こんなのを作ってあげようかと思っています。

 

 

 

 

ずっと昔、僕がまだ30代の頃、安部 譲二(あべ じょうじ)さんという、小説家、漫画原作者、タレントさんがおり、元暴力団員であり、自らの服役経験を基にした自伝的小説『塀の中の懲りない面々』などの著作がある人の話を聞きました。

僕はそれを今でも鮮明に覚えているんです。

その話というのが、彼が言った『人間は三っのうちの一つを経験すると、強くなれる』という話でした。
一つは刑務所に入ること。
一つは無一文になること。
一つは死の宣告を受けること。
聞いた時は、そんなものかな〜と思っていましたが、僕は55歳の時に、この一つを体験したのです。

それは死の宣告と同じ医師からの肺癌の末期ですという言葉でした。
この年、僕はいすゞ自動車から佐川物流という会社へ転籍しました。入社前検査を受けてから佐川物流に入社して、それから数ヶ月後に社内健康診断があり受診しました。
1週間後に要再検査と書かれた封筒が来たので、佐川物流の産業医であり、入社前検査を受けたいすゞ病院を受診しました。
レントゲン撮影が終わり、医師から呼ばれ診察室に入るや『山縣さん、今日は奥様はここへ来られますか?』と言われました。
自宅はいすゞ病院から100mと離れていませんから、直ぐに家内に電話して病院へ来て貰いました。
家内が診察室へ来て直ぐに医師は入社前検査の時のレントゲン写真と、今日撮影したレントゲン写真を並べて、僕達に見せ、『この部分が、大きくなってるのが、解りますよね。この病院では手に負えない状態ですから、直ぐに入院の手配しますが、東邦医大大森病院でいいですか?肺癌の末期を強く疑います』とのことでした。結婚して未だ一年も経っていない家内は泣き出す始末でした。
僕は55歳まで好きなことをやって来た人生ですから、55年間楽しがったなぁ〜程度の思いでした。
東邦医大大森病院の癌などの重篤な患者が入る5号棟に入院して肺癌の検査が始まり、肺に内視鏡を入れて肺の組織まで採っても癌どころか結核菌も出ません。
入院5日目に、体温や血圧を測りに来た看護婦さんから『あれ、この膝の上の湿疹、アセモですかね?山縣さん入院中は何科を受診しても入院費用は変わりませんから、皮膚科へ行って診てもらいましょう』と言って皮膚科受診の予約をしてくれました。
皮膚科へ行ってお会いしたのが、後でこの女医さんが、皮膚科の権威である関東祐美先生でした。
『山縣さん、パジャマですが、何科に入院されてるんですか?皮膚科を受診するのは何ですか?』と言われて、僕が膝の上のアセモのような湿疹を見せながら、肺癌の末期だと言われて呼吸器内科に入院していますとお答えしました。
女医先生は、僕の膝の上をじっと見つめて、『担当医の先生は誰ですか?』と聞かれたので呼吸器内科の担当医の名前を申し上げたら、直ぐに電話を取り呼吸器内科の担当医の先生を君づけて呼び出し、『◯◯君、山縣さん直ぐに退院させてあげでちょうだい!山縣さん、肺癌の末期じゃなくて、サルコよ!』
ちょうどローマ五輪が開催されていた時ですから、ムーンサルコなんて言う鉄棒の技がありましたが、正式な病名はサルコイドーシスということでした。
確かに東京都が指定する47の難病の一つですが、肺癌の末期のような死に至る病でもないのですが、難病ですから原因も解らず、従って治す方法も解らず、薬もありません。
ただレントゲン写真を撮ると、肺のリンパ節が少し大きくなっているだけです。

それ以降僕は一度死を覚悟していますから、残りの人生は、更に好きな様に生きようと思いました。
この件以降、運も付いたのか、風邪も引かなくなり、結局65歳まで勤務して定年退職、更に今は港湾カレッジの非常勤講師を拝命されており、元気にしております。

安部譲二さんの言われた、『三つの体験の一つを経験したら人間は強くなれる!』と言う言葉を実感することができました。
塾長こと山縣敏憲 拝