やる気がない自分でもいいというお話
9月になって幼稚園での朝サッカーが再会
水曜が年中さん、木・金曜が年長さん
正直8月はしんどかった…朝練がなかったから
なんか自分の感覚的にこの仕事は自分のためにあるんじゃないかと思える
子供たちのエネルギーがめっちゃ高い
勝手に笑顔になるし、引っ張ってもらってる感覚
だからなのか…
もらってる分を返さなきゃ!楽しませなきゃ!
そんな鼻息荒い自分に気づいたんすよね
でもね、子供たちってめっちゃ素直というか自分にめっちゃ正直
僕が鼻息荒く楽しませようとして用意したメニューはことごとくやってくれない
お水飲んでくるね
ちょっと休憩するね
足痛いから休むね
コートの隅にあるベンチに座ってこちらを見てます
そして、子供たちがやりたいメニューを楽しくプレーしてる姿を見ると戻ってくる
お水飲んだよ
もう大丈夫だからやるね
足治った
この変わりようがなんとも言えないくらいおもしろい笑
以前の僕はその変わりようがとてもダメなことと捉えてた
自分のやりたいかやりたくないかの基準 = わがまま
参加しているなら「やる!」のが当然
「やる」一択!(今思うとめっちゃブラック思考)
そんな偏った見方で子供たちを観てきたんだな
ここからはやる気のない自分でもいいに戻るんだけど
昨日は朝家を出るときから体が重くて
やる気があるときが100だとすると昨日は40くらい
モチベーション的には低い
前の自分なら
(何やってんだよ!やる気がないとかありえないだろ)
(指導者失格だな!やる気がないなんて)
(やっぱりサッカーそんな好きじゃないんだな)
と自分を奮い立たせてグランドにつま先を向けてた
でも昨日は、(まあいっか、そんな日もありますわな)って感じで
ゆるっといつものルーティンを回していくと
エネルギー的に子供たち全然変わらないんですね
むしろ「元気だな〜」って思えるくらいエネルギー高め!
なんなら最初のランニング中に
「コーチ、腰痛いなら僕が後ろから押してあげるね〜」と
僕の腰を後ろから押しながらランニングしてくれる子まで
自分がやる気なくても、子供たちには関係ないんだなって
(今さらかよって思えることだけど)僕にとっては大きめな気づきだったな
前は自分のやる気と子供たちのやる気を同一化しちゃってて
自分がやる気ないとと子供たちもやる気ないって思い込みでモノごと見てたってこと
めっちゃ偏った見方
だから、指導者はこうあるべき!こうあらねば!
という自分の気持ちを無視した勝手な価値基準ができあがったのかもしれない
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自分と子供を切り離す
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大人ががんばれなくても、子供たちはがんばれちゃうときもある
その逆だってあるはず
大人がやる気があって、子供たちががんばれないときもある
結果、昨日は子供たちに引っ張り上げてもらう形で
朝練が終わる頃には最初40だったやる気が90くらいまで持っていけた
(自分のポンコツさを受け入れてます)
肩肘張らずに自分の気持ちを受け入れてみる
一回受け入れてみるといつもと違った景色が広がるかもしれない