あなたには、こんな経験ありませんか?
SNSを開いたら、
バンバン自分を前に出して発信している人が目に入る。
「見てくれ!」という空気がビシビシ伝わってくる。
なんとなく…モヤっとする…。
「薄っぺらいな…」って、心のどこかで思ってしまう。
でも、ふと気づいてしまった。
その「薄っぺらい」というラベルを貼っていたのは、
相手じゃなくて、僕の中にある感情だったかもしれないって。
「薄っぺらい」の正体
「薄っぺらい」と感じる瞬間ってどんなときか…。
自分に問いかけてみると、こういう答えが出てきた。
「表面的なスキルや技術を、さも本質のように表現すること」
なるほど、これが自分の中の判断軸なんだ。
でも、待って。
そこまで分かったとき、次の問いが浮かんできた。
「じゃあ自分は、本質を、本質だと言って発信できているか?」
……できていなかった。
「もっと届けたい」
「もっと前に出たい」という気持ちが、確かにある。
でも、それを7〜8割くらい禁止していた。
体が縮こまる感覚
(自分が伝えていることは本質だ)
とSNSで堂々と自分の思いを伝えている姿を想像してみてください。
どんな感覚がありますか?
僕には、少し体が縮こまる感じがした。
それと同時に、こんな怖さが浮かびました。
「本質じゃないと否定されたら……どうしよう」
この怖さの正体は、内容への不安じゃない。
「本質を語る自分」が否定されたら、自分の存在そのものが揺らぐ感覚。
だから声を上げる前に、体が先に守りに入る。
お地蔵さんでいることの、陰と陽
僕はずっと「お地蔵さん」という在り方を大切にしてきた。
お地蔵さんについてはこちらから👇
静かに存在することで、
人が安心して変わっていける場所になる。
それが本物だと信じていた。
でも今日、ある問いに向き合った。
「お地蔵さんでいることが、同時に『傷つかないための場所』になっていないか?」
物事には陰と陽がある。
お地蔵さんの…
陽の面は、本物の安心感を場に宿す力。
陰の面は……傷つくリスクを取らずに済む場所としての機能。
「出し惜しみしてる自分がいる」と気づいていたのは、ここから来ていたのかもしれない。
「薄っぺらい」は羨ましさだった
ようやく分かった。
あの人たちを「薄っぺらい」と感じていたのは、
中身がないからじゃない。
自分が持っている深さを、前に出せていないもどかしさが、そこに投影されていた。
本当は届けたい。
本当は語りたい。
本当は堂々と前に出たい。
でもその欲求に「薄っぺらい」というラベルを貼ることで禁止してきた。
恐れから静かにしているお地蔵さんと、
傷つくことを知りながらも静かにいられるお地蔵さんは、
同じ静けさでも全く違う重さを持つ。
本質を持っている人が、本質を本質だと言う。
それだけで、言葉の重さは変わる。
あなたの中にも、「薄っぺらい」と感じている誰かがいますか?
その感情の奥に、
まだ自分に許可できていない何かが眠っているかもしれない。

