「手放せていない」と感じる自分を、ダメだと思っていた
「僕はまだ理想を手放せていないな」という感覚があった。
そして、その直後に
「手放せていない=ダメなこと」
と感じている自分にも気づいた。
これは、「理想通りにならないと自分を責める」パターン。
手放そうとしているのに…
「手放せていない自分」を責める
新しい理想を作っていた。
でも、手放せていないと気づけていること自体が
手放しの入口に立っている証拠なのだ。
僕の理想は「どんな自分でもOK」と思えること
僕が目指している状態は、こんな姿。
イライラを引きずる自分でもOK
うまくサッカー指導できないダメな自分でもOK
「しょうがないよ、人間だもの」と思える
ただ、これも捉え方を間違えると
自分を責める種になってしまう。
「OKと思えない自分はまだダメだ」と
二重に自分責めをしてしまうから。
だから一行足すことにした。
『しょうがない』と思えない自分でもOK
最終形は「いつでもOKと思える人」ではなく
「OKと思えなくても、それ以上自分を責めない人」
これくらいがちょうどいい塩梅なのかな。
イライラを引きずるのは、どんな時か
振り返ると、僕がイライラを引きずるのは主にこの2つの場面だった。
サッカーの公式戦で、選手たちを勝たせてあげられなかった時
家庭で、子どもに自分の思うように向き合えなかった時
どちらも「自分の思い通りに事が運ばない」場面。
勝敗も
子どもの気持ちも
一人の力でコントロールできるものではない。
僕が握れるのは
準備と関わり方まで。
結果に自分の価値を預けていたから
引きずっていたのかもしれない。
「もっとできたな」には二つの顔がある
試合に勝てない時
頭に浮かぶのは「もっとできたな」という言葉。
しかもそれは、選手に対してというより
自分ができたことがあったな…という自分への言葉。
この言葉には、二つの顔があります。
学びとしての「もっとできたな」:次に向かって前を向く振り返り
裁きとしての「もっとできたな」:できなかった自分を責める声
見分けるコツは、言ったあとの身体の感覚。
僕の場合は、重く沈んで、体が強張る感じ。
つまり、裁きとしての「もっとできたな」だった。
強張りは、自分を守ろうとする反応だった
体の強張りは、敵ではなかった。
「もう傷つかないように、先に自分を責めておこう」
という昔からある自分なりの防衛だった。
小学生の頃から生き抜くために
この声は頑張るための燃料になってた。
だから、追い払うのではなく、まずはねぎらうことにした。
気づく:「あっ今、体が強張ってるな」と実況する
体に触れる:胸や肩に手を当て、ゆっくり息を吐く。緩めようとせず、そのまま
声をねぎらう:「勝たせてあげたかったよね。ずっと頑張ってきたよ」と、親友に言うように自分に言う
学びは最後に一つだけ:「次はこれを試してみたい」
大事なのは、先に緩めて、そのあとで学ぶこと。
強張ったまま反省すると、反省が自分への攻撃になるから。
一番出したくなかった自分
そして、一番奥にいた自分が見えた。
無力、無能を感じて、打ちひしがれる自分。
これは「一番なりたくなかった自分」
体の強張りは、この自分を感じないように守っていたのだ。
ただ、「無力さを感じている」ことと
「無力で無能である」ことは別。
前者は今の状態で、後者は人としての判決。
感覚がどれだけ強くても、それは判決ではない。
そして、この無力さは
手の届かないところに本気で手を伸ばしているから感じるものでもある。
無力さを感じた時は
解決しようとせず
横に座るようにこう言ってみようと思う。
「今、無力さを感じて打ちひしがれている僕がいるな。それだけ本気だったんだな」
手放すのは「努力」ではなく「前提」
僕が手放したいのは、努力そのものではない。
努力する力は、これからも僕の財産。
手放したいのは
「努力しないと価値がない」
「そのままの自分ではダメだ」
という前提。
その前提が静かに溶けていけば
同じ努力が「必死の鎧」ではなく
「好きだから没頭している」に変わっていくはず。
自己実現とは
何者かになることではなく
何者でもない自分に戻ること。
まだ握っている自分も
ちゃんと本番の一部。
そう思いながら、少しずつ許していく。
あなたへの問いかけ
あなたが今掲げている「理想の自分像」は、どんな自分ですか?
その裏には、どんな「こうじゃなかったらマズい」がありそうですか?
