『あのひと』とは関係がない、ファイナルと漫画の相違点をご紹介します
次はテリィ以外の項目をチェック。
誕生日はアンソニーが決めてない?
©水木杏子・いがらしゆみこ 画像お借りしました
キャンディの誕生日は、アンソニーがばらをプレゼンとした日だと思っていませんか?
データによるとキャンディの誕生日は5月7日。コアなファンなら誰もが知っています。
漫画やアニメでは、アンソニーは本当の誕生日を知らないキャンディに
「次に僕と会った時が君の誕生日だ」
と言って別れ、新種のばらが咲いた日にプレゼントします。そう、スウィートキャンディです
しかしこれ、ファイナルや旧小説には描かれていません。
では、スウィートキャンディのエピソードはどのように書かれているのか?
アードレー家のパーティに呼ばれ三銃士と調子にのって踊りまくった夜、ラガン家の恥!とラガン夫人に激怒され部屋を馬小屋に移されます。翌朝庭師に用事があってラガン家に来ていたアンソニーがそのことを知り、気丈に笑顔をつくるキャンディに心を打たれ、一度家に帰ったアンソニーは再び戻って来て「きみにプレゼントを持ってきたんだ」と言って新種のばらの鉢を渡します。既に開花していたばらを、大好きなキャンディを元気づけるために贈った、という感じです。
誕生日という言葉はどこを探しても一切出てきません。
ということは、小説世界では5月7日は元々ポニー先生とレイン先生が決めた誕生日ってこと?
なかよし漫画新聞によると、アニーの誕生日が5月7日なので、そうかもしれませんね。
漫画では、セントポール学院のメイフェスティバルの花の精の発表の時に、キャンディは「5月‥あたしは誕生日が二回ある・・」と心の中でつぶやきます。
ポニー 先生由来の日とアンソニー由来の日という事ですが、5月7日がどちらなのか、このセリフだけでは分かりません。
ちなみにアニメでは間違いなくアンソニーがばらを贈った日が誕生日です。
と言うのも、アニメではキャンディは雪の降りしきる真冬にお父さんの木の下に捨てられるからです。
↑ポニー先生が抱いているのはアニーたんです。
レイン先生「あら?あちっからも、泣き声が・・」
親としてあり得ないですねっ、子供を殺そうとしているんでしょうかっ プンプン
――ハっ、話を元に戻します。
つまりアニメでは、先生たちが決めたキャンディの誕生日は冬、と考えるのが自然です。
そのキャンディが、メイフェスティバルでシスターに「5月生まれの人に花の精になってもらいます―」と言われ、キャンディの名前が呼ばれるので、明らかにアルバートによる出生届の改ざんが認められます。
スウィートキャンディの違い
旧小説・ファイナル
落ち込んているキャンディを勇気づける為に「きみにプレゼントを持ってきたんだ」と言って新種のばらの鉢を渡す。誕生日は無関係の、いわば勇気のばら。
ばらの色は淡いピンク。
漫画
アンソニーがキャンディの住む馬小屋を訪れ、「はい、これが(誕生日の)約束のプレゼント」と言って、やっと品種改良に成功した一枝のつぼみを、キャンディの胸につける。
ばらの色は白で、真ん中がうっすら緑
アニメ
夜通し二人で乗馬した後、アードレー家に戻った二人はばら園で開花しているバラを見つけ、その後「わあ・・なんていう名前のばらなの?」と質問し「スウィートキャンディ」と答える。
ばらの色は白で、薄っすらブル―?
キャンディを慰めなかったアルバートさん
漫画より抜粋
「運命はね、人からもらうものじゃないんだよ。自分の手できり開くものなんだ。つよくおなり、じぶんの運命をじぶんでさがすんだ」
これは、アンソニーの死を受け入れられないキャンディに、アルバートが言った最強の一言です。
作品のテーマともいえるでしょう。
ところがこのシーン、旧小説やファイナルにはありません。
キャンディは、自分で乗り越えてしまいましたいえ、いいんですけどね
バラ園で声を上げて泣いていた時、バラの枝を掴んでしまいます。すると、棘が刺さり指先から血が吹き出します。そこでキャンディは思います。
「生きているのだ」と。
そして周りを見ます。枯れているように見えるばら園も、今命を育んでいるのだと実感します。
そこでアンソニーから天の声。
「――そうだよ、キャンディ・・今まどおり笑顔で生きてほしい」上巻225
そしてキャンディは前を向きます
ファンにとって、この変更は少々残念ですね。
漫画でもアニメでも、アルバートらしい、いい味が出ていました。
キャンディ回帰が令和のブログ主は、この変更について書かれている考察を読んだことはありませんが、以下のように考えます。
過去、名木田先生はご自身の公式ファンサイトに於いて、『キャンディは哀しいことがあった時、人から何か言われて立ち直るのではなく、自分で、あっ!と気が付いて欲しい』
という趣旨の発言をされています。
このエピの変更は、その辺りを意識したものだった可能性もありますね。
甥っ子の死に責任を感じていたアルバートさんが慰めるのも変な話ですし。
いえ、そもそも「変更」ではなく、これが根っからの原作だったのかもしれません。
漫画は、漫画家や編集者が脚色している部分が多々ありますので。
プッペをアフリカに残してきた!
キャンディとの往復書簡の中でアルバートが語った、スカンクのプッペの新エピソード。
「プッペをアフリカに残してきた。別れはつらかったが(中略)シーザーとクレオパトラが再会したときの喜びようを君に見せたかった。動物も人も変わらない。いや、動物たちの方がもっと一途で純粋かもしれないね。決して裏切らないから。プッペをイタリアでの事故に巻き沿いをしなくて良かった―そう思った。しかし、シーザーとクレオパトラをみていたら、プッペはもしも、列車事故で命を落とすことになっても、僕と旅をしていたかったのかもしれない――そう思えてきて胸が痛んだ」下巻P311
ファイナルでだしぬけに登場した『プッペはアフリカに残してきた』エピソード。
・・という事は、プッペはシカゴに行っていない?シカゴでキャンディと生活もしていない?🤔
プッペを残してきた時期については意見が分かれることもあるようですが、ココでは直接関係ないので取り上げません。
しかし漫画でもアニメでも常にアルバートの近くにいたプッペになぜ新たな設定を?
ここで分かるのはアルバートの人間性です。
★生き物はその生態に近い環境にいることが一番いい!自然が一番!
★動物どうし、あるいは動物と人間、その垣根を越えて想い合うことができる。
ここで3組の男女カップルに登場してもらいます。
シーザーとクレオパトラ
→生き別れだった。再会して大喜び!
アルバートとプッペ(メス)
→別れた。プッペは天寿を全うしたが、やっぱり僕と一緒にいたかったのでは、と心がズッキリ。
テリィとキャンディ
→その時点(往復書簡を書いた時点)では別れたまま。
このエピソードを入れた背景には、往復書簡の中では表立って語られることがなかったテリィとキャンディの関係について、アルバートの考えが暗に述べられたと考えるべきなのか?
「その判断は正しかったのかもしれない。だけど本当に後悔しないのかい?相手が今どういう気持ちでいるか、もう一度考えてみないか。やっぱり君たち、素直になるべきじゃないか」
こういう事でしょうか?いやいや、これはこじつけですね。動物愛護だと思います
宿題の古詩が違う
ルイーズ・ラべのソネット
作中に出てくるルイーズ・ラべのソネットは、小説と漫画ではキャンディが暗唱している詩が違います。
ルイーズはルネサンス期のフランスの女流詩人です。従って原文はフランス語と思われます。
ソネットとは14行から成る「ヨーロッパの定型詩」です。
ファイナルでは3~5番が宿題に出て、学院の丘を歩きながら「・・とはいえ、神々も人間も蔑するかの神の所業は・・えーと、それから何だっけ」と暗唱しています。これは4番です。
かなり情熱的な恋の詩で、シスタークライスはシスターの身でありながら恋の詩ばかりを宿題に出したことになります。(これも教育の一環、淑女の心得につながるんでしょうか)
ちなみに漫画では8番を唱えています。「ワタスハ生きっぺ、ワタスハ死ぬっぺ」とイライザとルイゼがキャンディの発音を田舎者の言い方よ、とこけおろします。この場面ほのぼのとして好きです
ソネット8番は対比する二つの表現が連なり、ルイーズの中でも秀逸の作と誉れが高いそうです。
私は生き、そして死ぬ。身を焦がし、溺れる。
私は寒さに耐えつつ、激しく燃えている。
人生は優しすぎ、同時に辛すぎる。
大きな不安と喜びが混じり合っている。
ふいに私は微笑み、そして涙を流す。
喜びに浸りつつ、多くの不満と悩みに耐える。
私の幸福は過ぎ去ってしまうが、決してそのまま続くことはない
突然私は萎れ、そしてまた生き返る。
こうして、恋は私を不安定にさせる。
そしてもっともっと痛みを感じるだろうと思った時
知らず知らずの内に、痛みから逃れている自分に気づく。
そうして自分の喜びに確信が持てる時
私が渇望していた幸せの頂点で
私は私の窮極の不幸に引き戻す。
「ルイーズ・ラべ全集」訳 村地江里奈
3番~5番に変更したのは何故か?
何か意味があってのことなのか?
旧小説では単に3つの古詩が宿題に出るので、それが頭に残っていた名木田氏はとにかく3編ね、と選んだのかもしれません。しかし7.8.9でも良いところを3.4.5にしたわけですから、その3編が好きだったか、内容的にバランスが良かったのでしょうか
ブログ主はルイーズ研究家ではないのであくまで主観ですが、3つのソネットは学院にいた(詩を覚えた)当時のキャンディの過去・現在・未来を暗示しているように感じます。
3番は恋の相手を失った苦しみ(=アンソニー)、4番は激しい恋に翻弄される我が身(=テリィ)、5番は失恋の悲しみ(=テリィとの別れ)です。
しかしなにぶん、詩が口語ではないため、凡人のブログ主には難解で、まったく自信がありません。
原文の和訳を紹介しますので、各々感じ取って下さい
3番
キャンディが朝のバルコニーで口ずさみはじめた瞬間、朝靄の森を歩くテリィの寂しげな姿を見つけ、「・・テリュース・・・」と、唱えるのをやめます。※赤字はキャンディは唱えていた部分。
ああ久しい願望よ、いたずらな希望よ
哀しい嘆息よ、片時も涸れることなく
水源のごとく噴水のごとく、わが双の眼より
滾々とあふれ出で、大河なす涙よ
ああ酷い仕打ちよ、非情な石のごとき心よ
天界の星辰の憐れみを含ん眼差しよ
冷え切った心の味わった、最初の頃の情熱よ、
わが苦悶を増すことが出来ようと思うてか
愛神よ、私にまた弓を向けるがいい、
またしても火と矢とを射かけるがいい、
わたしを蔑して、どんな目にでも会わせるがいい、
わたしはもうどこもかしこも傷ついて、
新たな傷負わせて苦しめようにも、
無事なところとてないのだから。
※「焔の女 ルイーズラべの詩と生涯」沓掛良彦氏の翻訳
恋に疲れて、または恋に破れて傷ついているようですが、愛の神に「また弓を向けるがいい」と言っているので、次の恋(=テリィ)を受け入れる覚悟もある―?
4番
同じ日の昼休み、ポニーの丘に上りながら唱えていましたが、煙がもわっと上っているのを見つけ(テリィの煙草)、「わああ、火事!」と中断されます。※赤字はキャンディは唱えていた部分。
残酷な愛神(アムール)が初めてその火焔(ほむら)で
わが胸中に注ぎ毒入れたその日より、
絶え間なく神の与えた激情に灼かれていたわたし、
それが一日とてわが心を去ろうとはせぬゆえに。
どれほどの苦患(くるしみ)を与えられようと、
どれほどに脅されて身に破滅が迫り、
どれほどに万象(すべて)に終局(おわり)告げる死を想おうとも、
何物も怯えることのなかった、火と燃ゆるわが心。
愛神が狂おしくわたしたちを襲い来れば、
わたしたちも負けじと渾身の力を絞り
いよいよ覚悟もあらたに、戦闘(たたかい)に臨むばかり。
とはいえ、神々も人間も蔑(なみ)するかの神の所業は、
わたしたちに恵与える意は露ほどもなく、ただ
強い者らにもまして強いその威力(ちから)の程を示すため。
・・・燃え上がる恋心?途中から「わたしたち」となっているので、二人ですね。
なんでしょう、こう、試練などくそくらえ、神を恐れず二人は無敵に燃え上がっている感じ?
5番
作中には登場しません。
み空をあゆみたまう明々と輝く金星女神よ、
歎き(なげき)つつ歌うわが歌声を聴きたまえ、
いと高い空に御顔(おんかんばせ)の輝くかぎり
わが歌の苦悶と悲嘆は永う(ながらう)のです。
御姿を眺めては、寝もやらぬわたしの眼はなごみ、
いよよしとどにあふれる涙に濡れて
打ち伏す臥所のやわらかな衾(ふすま)をぬらします。
そのさまを見そなわす御眼こどは、悲嘆(なげき)の証人。
もろ人のつかれた心は
熟寝のうちにやすろうているのに、わたしは
日輪の輝くかぎりただ苦悩に堪えているとは。
かくて身も心も破れくだけて、
捲み疲れてひとり床に伏し、夜もすがら
身の不幸を泣き明かさねばならぬこの身よ。
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