続いて、また別の視点からの考察になります。
長い物語が必要なのは誰?
「あのひとが誰かをきちんと描くには、長い物語が必要なのです」下巻336
と名木田先生は言っています。長い物語は20年分、単に恋愛の成就だけではありません。
どうでしょうか?検証してみます。
アルバート編
既に漫画や旧小説において確固たる関係を築いているアルバートなら、恋の成就はあっさり成し遂げられそうです。とはいえ養父と養女はその関係を解いても結婚できないので、一族の反対など、葛藤が描かれるでしょう。
シカゴを捨ててエイボン川の町へ定住するに至る経緯は、かなりの想像力と長い物語が必要だと感じます。
ギャングの横行や世界恐慌のあおりでアードレー家が倒産したなら、総長の片腕であるアーチー&アニー夫妻にも暗い影が伸びてきます。
名木田先生の脳内で展開されている続編では戦争も絡んでくるようですが、その時アルバートは50才。
いつも近くにいることを望んでいる(とファイナルには書いてある)キャンディを置いて志願兵になるとは思えないので、安全なアメリカに帰国がベストでしょうか。
テリィ編
番号は多少入れ替わるでしょうが、内容が濃く、長くなります。しかも何だかドラマチックです。
そもそも①まで進むのに最低10年掛ります。恋の成就に必要な足掛け期間の長さは、アルバートの比ではありません。
交際をスタートすることは、アルバート同様さして困難ではないでしょう。
しかしテリィの場合、役者としての再起などのほかにも、過去10年のスザナとの関係性(婚約・隠された手紙の事)やスザナの生きざま(病気・戯曲の仕事・死)を詳らかにするという描写が必要不可欠なので、この時点で内容がアルバートの2倍になります。
結婚に向けた動きは、絶縁状態の公爵家が絡んでくるので、アルバート同様に一波乱ありそうです。
イギリスの劇団の移籍にも触れないといけません。
戦争になってくると、イギリス国籍のテリィには緊迫感の漂う状況になります。イギリスは徴兵制ですし、公爵家の長男であることは事実ですから。
ただ、どちらが長い物語になるか比較する事は、全く意味が無いと感じますじゃあ書くなよ
原作者は相対的な事を言っているわけではないでしょう。
酷すぎるアルバート編
「この小説は物語として完全ではありません」下巻336
この原作者の発言でも分かるように、ファイナルは10年以上の空白を設けた物語です。
空白の部分は読者の想像力で埋め、エイボン川畔の家での穏やかな暮らし、という結末に繋げるように書かれています。
ところがどうでしょう?
アルバート編を想像するの、至難の業じゃないですか?
恋の成就まではいいのです。問題はその先、何故移住しているのか、です。
アルバートは、「仕事が面白くてたまらない。僕にはやはり父ウィリアムの血が流れているのだと思う」下巻311と、仕事で海外を飛び回り、シカゴで散財している様子が描かれています。
アードレー家を放棄したり転職したりする姿は、本からは感じません。
また、社会的な背景――アードレー家の経営がヤバいだの、シカゴがギャングでヤバイだの、金融恐慌でヤバイだの、という伏線も出てきません。
それどころか、金融恐慌においても、大したダメージは受けていない様子が垣間見えます。
「(ラガン家は)あの金融恐慌においてもダメージを受けるどころか、更に力を増している」下巻198
これはラガン家の事業ですが、「リゾート・イン・X(ホテル)」でのオープニングパーティでは、総長はじめ皆笑顔で談笑し、余裕、余裕
唯一「レイクウッドのお屋敷が人手に渡った」上巻230 という文章に陰の部分を感じますが、これは「アンソニーやステアの思い出がある屋敷は大おばさまが辛すぎて手放した」とも考えられます。
手放した時期も理由も書かれていないので、世界恐慌との関連性は分かりません。
このように、ほぼノーヒントでエイボン川の町に50歳のアルバートを誘導するのは、一介の日本人読者にはあまりに酷だと感じます。
その時代の資料を調べたり1930年頃を描いた映画を観ないと無理でしょう。
そんな試練を、原作者は読者に課すものでしょうか?🤔
ブログ主は「アルバート編」を何度も脳内で試みましたが、「アルバートらしさを保ったまま」7つのエピを余さず使って一貫した物語を作るのは、正直お手上げです。
ただ住めばいい、ってもんじゃないですし
一方テリィ編は、ファイナルを読んでいるだけで、簡単にラストシーンまで繋がってしまいます。
曖昧ではなく、具体的に書かれているという事を、テリィファンは身をもって体験しているようなものです。
プロの作家である以上、脳内ではしっかりとした構想がある物語が紡がれているハズです。
「心だけの続編では、それ(第二次世界大戦を目前にしたキャンディ)が終章になります」下巻335
ファイナルのあとがきに書かれたこの文言は、その裏付けにもなっていると思います。
だからこそ、「曖昧に」と言いながら「具体的なヒント」が散らばっているのではないでしょうか。
これが私の書きたかった世界なのだろうか?
ファイナル下巻のあとがきで紹介されている名木田先生の言葉です。
32年前に書いた小説キャンディキャンディを読み返した時、このような気持ちを抱いたそうです。
自問した結果「心のままに―心残りの無いようにしたい―わたしは全面的に書き直そうと決心しました」下巻335となります。
先生が前作について、『・・何か違うんじゃないか』と疑問を持ったとしたらどこだと思いますか?
キャンディキャンディの物語を初恋回帰の恋愛小説と読む人もいれば、少女の自立と読む人がいます。
いずれにせよ、この2点においては漫画では完璧に描き切れていると思います。
漫画、旧小説、ファイナルを読む限り、アルバートやキャンディは十分に幸せだと感じることができますし、実際そのような発言も出ています。
何か・・ココちょっと違うかも、と思ったとしたら、やはり「テリィの扱い」ではないでしょうか。
当初登場予定になかったキャラクターだった為、かなり悲惨で強引な終わり方になっているのは否めません。
唯一の救いとしては「テリィは自らスザナを選択した」という事でしょうか。
納得できない人も多かったと思いますが、少なくともブログ主は、これも含めて名作だと感じています。
原作者はテリィファンだったとしばしば小耳に挟みますが、だから書き直したと考えるのは安易だと思いますし、テリィファンに何か言われたから考えを改めた、とも思えませんが、原作者の視点で物語を見た時、「生きていれば希望を抱ける」「未来は自分で切り開く」などの物語のテーマがぼやけていないかと、何となく感じた可能性はあります。
仮にそうだとしたら、伝えたいことがあって筆を執っている作家にとっては、かなり気になる部分だと思います。
作品のテーマを改めて強調するには、テリィに希望を与えるしかありません。
ファイナルストーリーは続編ではない
CC界隈では、「ファイナルストーリーは続編ではない」という原作者の言葉に、二通りの解釈があるようです。
①続きではなく、今までと同じ
②根本的に漫画と違う
日本語って・・面倒ですね
というわけで、名木田先生の関連サイトの発言をお読みください。
質問者
なぜ、改訂版では曖昧な結末を描くことをお決めになられたのでしょうか?今後私たちがいつの日か「あのひと」が誰であるか知ることはあるのでしょうか?
名木田先生
曖昧にした理由はいくつもありますが、その一つは、あのひとに至るまでのdetailを書かなかったからです。それを書けば続編になってしまいます。
わたしは裁判上では原著作者で続編も自由に書くことはできますが、なんといっても原点は漫画です。
漫画のために描いた物語なのです。
(はじめから小説として書いていたなら、書いていたでしょう。)
そして、漫画として評価されなければ、現在もありません。
そういった意味で<曖昧>な結論が精一杯の<その後>です。
あのひとがだれか、ということより、キャンディスが<さまざまな苦難を乗り越え(そうなのよ!)、いちばん<愛しているひと>と穏やかでしあわせに暮らしている>ことを最後にお話ししておきたかったのです。
繰り返しいっていますが<続編ではありません>。
今までの小説版を全部書き直したのです。
以上が名木田先生の発言です。
どのように捉えるかは個人にお任せしますが、この発言からは漫画と全く変わっていないから(同じ結末だから)続編ではない、とか、結末を変えたから続編ではない、などのニュアンスは感じられません。
ブログ主は以下のように考えます。
元が水木杏子独りで書いた作品として世に出たのであれば、今回続編として細部を書くことも出来た。
しかしキャンディキャンディは漫画が原点で、前作(旧小説)は複数人が関わって漫画の為に作られた物語である以上、原作者独りで書いたファイナルは「漫画の続編ではない」。
漫画(ファン)や漫画家に配慮し、「空白の期間を設けた曖昧な物語」に仕上げるのが精一杯だった。
キャンディは様々な苦難を乗り越えて、愛する人と幸せになった。
皆さんはどう思いましたか?
ついでに、かなり個人的な意見と承知の上で書きますが
「キャンディスが<さまざまな苦難を乗り越え(そうなのよ!)、いちばん<愛しているひと>と穏やかでしあわせに暮らしている>ことを最後にお話ししておきたかったのです」
これ、キャンディじゃなくて、テリィに思えませんか?※テリィファンの個人的な意見です
本当は、そう言いたかったのではないかな、とチラッと思います
物語世界としては全く変わっていない
原作者のこの発言は、一見すると「漫画と同じで、アルバートエンドは全く変わっていない」と読めますが、それはキャンディキャンディを恋愛漫画として見ている読者の発想のように思います。
物語のテーマをどう捉えたかは、読者それぞれに違うと思いますが、私は小学生だった当時から「困難を乗り越え自立する少女の物語」と思っていました。
「なかよし」に連載するにあたり、企画立ち上げ時の担当編集者の清水氏と水木先生、いがらし先生は「少女の成長ドラマ」として捉えていたとの事です。
以下は裁判で語られた清水氏(3年間担当編集者)の陳述書の要約です。
いわゆる『名作もの』の企画で行こうということになった。
『名作もの』とは、著名な外国文学のように、長きにわたり読み継がれた作品にようなものをイメージしていた。
まず『ローズと7人のいとこ』という作品名がいがらしさんから出て、『あしながおじさん』の話を清水が持ち出した。
水木さんも幼いころから『赤毛のアン』などの名作ものは大好きだった。
※安藤健二・封印作品の謎89頁より・(株)彩図社
Q:読者に何を訴えたかったのですか。
A:前向きに生きる、悲しみを喜びに転化してほしいということです。
原作者が語った「物語世界としては全く変わっていない」という発言は『物語のテーマは全くぶれていませんよ』という意味だと解釈します。
実際に、ファイナルの大トリを飾るアンソニーへの手紙の中に、次の言葉が登場します。
わたしはしっかりと前を向いて進んでいきます。約束した通り笑顔で、ね! 下巻328
ファイナルをテリィエンドと読んだ場合、二人は困難を乗り越えて結ばれるわけですから、物語のテーマに何のぶれも感じません。
曲がり角の向こうには何が待っているかわからない
これは、ファイナルのあとがきに登場する原作者の言葉です。ファイナルという作品は、永遠と思われた漫画家先生との友情が破綻し、長期にわたる法廷闘争の後に出版されました。
漫画家先生が「新キャンディキャンディ」の物語を募っていると知り、「めまいが起きるほど、とてもつらい出来事」下巻334だったと書いています。それがきっかけになり、小説版の復刻(→ファイナルの書き下ろし)へと繋がっていきます。
完結していた漫画の物語。そこに手を付けるとはご自身でも予想外だったと思います。
まさに曲がり角の向こうには何が待っているか分からない
「原作者が筋書きを変えるはずない」
「キャンディキャンディは初恋回帰の物語。テリィと結ばれたら意味がない」
「テリィは急遽あつらえた登場人物」
このような声があるのは知っていますが、原作者は「曲がり角の~」とわざわざ言っています。
「怖れずに突き進んでいけば」下巻338とも書いています。
そしてファイナルの作中で、30代のキャンディにも同じセリフ言わせています。
「曲がり角を曲がったところには何が待っているかはわからない」下巻330
しかもこの言葉は、希望めいたニュアンスで使われています。
「その先の曲がり角にはきっと、私を包み込んでくれるようなすばらしい出会いが待っているはずだ。そう信じている」下巻330
アンソニーの死やテリィとの別れ、アルバートとの再会を経て「生きていてもかなわない運命があることも知った」下巻327と悲観していた20代のキャンディは、30代には「生きてさえいればまた巡り会うことができるのだ」上巻232と発言が変わっています。
キャンディがそれを言いたくなるような予想外の展開があったのかもしれませんね。
海外版ファイナルの発売の際の原作者の言葉を、キャス鈴さんが簡潔にまとめています。
※許可を取って掲載しました。
鶴の一声
2019年3月フランス語翻訳版「FINAL STORY」の出版記念の際、名木田先生がフランスへ訪れた時の発言です。ファンの一人が先生に質問しました。それが次の文章です。
そして最後に、彼女が(名木田先生)があのひとの正体を決して明かさないと知りながら、尋ねてみました。
『本(FINAL STORY)の最後で、テリィは幸せですか?』
先生は元気よく頷いて、
『はい、(テリィは)幸せです』
先生の通訳がそう私に伝えると
『皆、幸せです』
と付け足しました。
↓原文です
Then finally, knowing that she would never reveal Anohito’s identity, I asked her, “Is Terry happy at the end of the book?” She nodded vigorously. “Yes, he is,” her translator told me, and then she added, “They are all happy.”
テリィファンにとって最も重要なのは、あのひとが誰か、ではなく、テリィは幸せになったのか、ではないでしょうか。
テリィの幸せはキャンディにしかありません。
ファイナルでは、そう強く描かれています。
ぼくは何も変わっていない
だからこそ、ファンは願ってしまうのだと思います。
テリィは幸せです
これが原作者の口からきければ、十分だと感じます。
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