★★★8-10
宛名はテリュース・グレアム様―  
雑誌の切り抜きに載っていたテリィの新しい名前。
テリュース・G・グランチェスターの“G”がグレアムだったことを初めて知り、確実に届いて欲しいと、慣れないこの名前を戸惑いながら書いたのを覚えている。
シカゴの病院に移ったばかりの多忙な日々の中で、手紙を書くのはいつも夜になった。
同室のフラニーを気遣い、デスクの弱い光を自分の背中でブロックしても、コホンという迷惑そうな咳払いが聞こえると、慌てて書くのを中断した。
アパートの住所を知った後も、巡業中はポストの容量が心配で、あえて劇団宛に出すこともあった。
「・・封筒に、キャンディの絵が?」

一通の封筒を拾い上げたキャンディを見て、テリィは真一文字に結んだ唇を、思わず噛みしめた。
「覚えてないのか?・・そうだろうな。今思うと君、絵が下手な割に、”キャンディの絵”だけはやたら―」
もちろんキャンディは覚えてなどいなかった。だけど、理由は見当がついた。
「・・見つけ易くする為、かしら?小さいころから描き慣れているの。私の右に出る人はいないはずよ」
口角をキュッとあげ小さな笑顔を作りながら、キャンディはブリキの缶に入った手紙の方に目を移した。
このアパートの住所が誇らしげに書かれている。
――自分しか知らない、テリィのプライバシー。恋人なのだと実感し気持ちが舞い上がったあの頃。
何を書いたかなど殆ど覚えてないが、きっと日常の他愛のないことだったに違いない。
だけど伝えたいことはいつも一つだった。


テリィ、あなたが好き。・・会いたい・・!

「・・アパートに届いた手紙は、これだけ・・なのね?」
キャンディは食い入るように缶に納められた手紙を見つめた。
劇団宛の手紙に比べ、あまりに数が少ない。
看護婦試験や記憶喪失のアルバートさんのお世話で忙しい時期だったのかもしれないが、当時これだけしかテリィに届いていなかったなら、自分が水色のリボンで封印した手紙とは、あまりに数が釣り合わない。
(・・テリィはあんなにたくさんの手紙をくれたのに・・!)
開かれたままのトランクケースから、水色のリボンで括られたテリィの手紙の束が見える。
キャンディは十年以上も前に書かれたテリィの手紙が走馬灯のように浮かんできた。


8月△日 
一目でも君に会えてよかった。シカゴにいると聞いたが、自分の目で見るまでは信じられなかった。パーティを抜けだし、一晩中病院の前で待ったが君は帰って来なかった。・・いったいどこで何をしていた?どっかの坊やみたいに、朝まで飲んでいたのか?ま、会えたから許してやるよ。・・いま旅の途中だ。まだリア王をやってる。今月末にブロードウェーに帰る。アドレスは一番最後の紙に・・。いつか必ず会おう、キャンディ。

8月○日
 あれから旅は南下した。この街は、芝居環境が整っているとは言い難い。
人種差別が色濃く残っているようだ。だが、芝居を観るのに肌の色は関係ない。もちろんそばかすも。
一人でも多くの人にシェークスピア劇を観てもらいたい―・・

8月×日
車窓からみえる景色は単調で、劇団員は寝てばかりいる。
キャンディならひとりでも一日中しゃべっているだろうな。君が隣にいれば退屈しないのに。
荒涼とした大地に咲いていた一輪の花を見つけた時、君を思い出した。
厳しい環境に負けずに育った花は、ひときわ強い花になるという。
名前が分からないので、モンキーフラワーと呼ぶことにした。

8月△日 
風景が赤い大地に変わった。どれほどの顔を持つ国なのか。
地平線の彼方まで続く真っ直ぐな道。シカゴまで続いていると聞いた。
この道の先に君がいると思うと、歩いでも向かいたい気持ちになるが、諦めた方が良さそうだ。

 



8月○日 
初めて太平洋を見た。海の色はさして大西洋と変わらないようだ。
一つ違うと言えば、見えるのが朝陽ではなく夕陽ということか。
・・夕陽は一人で見るものじゃないな。君が横にいないことが残念でたまらない。
君の街でも、同じ夕陽が見えているだろうか―


宛名はいつも『ターザンそばかす』。
訪れた街の先々からも手紙や絵ハガキを送ってくれたテリィ。
スケジュールの合間をぬって書いているのか、普段よりもずっと短く、整っているテリィの字がひどく乱れていた時もあった。揺れる列車の中で書いたのかと想像するだけで、私の顔はほころんだ。
毎回少しだけ私のことに触れられていた。それがとても嬉しくて――


「・・・テリィは、あんなにくれたのに―・・。私は・・これだけ・・・」
キャンディは胸の奥が苦しくなり、見つめていた封筒の文字が次第に見えなくなった。
「何を言っている、キャンディはこんなに―」
「――でも、でも、届いてなかった・・・。・・・ごめん、・・ごめんね・・」
再びあふれ出した涙とともに、キャンディの声が思わず漏れた。
「・・なぜ君が謝る?・・君は何も悪いことはしていないだろ」
キャンディから発せられた意外な言葉に、テリィは戸惑った。
「もういいわ・・。もういいのよ。全部持って帰ろう・・私たちの家へ。私は許すわ・・。ううん、許すとか、許さないとか、どうでもいい。私はただ・・スザナの魂が救われることを祈るだけよ・・・」
ポロポロと涙を落としながら、キャンディはやっと言葉を紡いだ。
青いマフラーを濡らしたくないと思いながらも、青が沈んだ藍色に変わっていく。
「――怒りたい時は怒っていいんだぜ」
「怒ってなんかないわ・・。ただ悲しいだけ・・。スザナを、責めるつもりは―・・・」
キャンディはヒックヒックと鳴りはじめた喉が詰まり、うまく言葉がつなげない。
「・・むしろ、この手紙が、・・遅れて出てきたことで・・・結婚を止められたのなら・・」
「確かにそれは一理あるけど、それとこれとは話が―」
「もういいの―!・・もう手紙のことは考えないで!私・・あなたの涙は見たくないっ」
キャンディは涙声で自分の顔を両手で覆った。
「涙・・?俺がいつ?」
さすがに夢の涙までは覚えていないのか、テリィは自覚がないようだった。
「・・あなたには、笑顔でいて欲しいの・・・」
「君は泣いてるぜ?さっきからずっと。―・・君が泣いているのに、俺が笑えると思うか?これは君にとって一方的な仕打ちだ。我慢なんかしなくていい。怒っていいんだ」
冷静な言葉にキャンディは言い返せず、両腕で頭を覆うようにテーブルに伏してしまった。
芽生えそうになるスザナへの負の感情が、あまりに切なく哀しかったからだ。

私は怒ってるの・・?
違う、悲しいだけ。
どうして・・?
手紙が届いていなかったから、テリィに気持ちが届いていなかったから。


でも今は届いてる。十分すぎるほど・・。
スザナ、私はあなたの気持ちが分かる。
手紙を隠してしまったあなたの気持ちが。
私だって、婚約の記事を見た時、どんなにあなたになりたいと思ったか。
あの事故さえなければ、と思ったか―・・

 

・・・スザナさえ――・・・いなければ――
 

一瞬でもそう思った私が、いなかったとは言えない。


誰かを心底、愛してしまったら、きれいな気持ちのままではいられない・・。
私達は知っている。
同じ人を愛したから・・・―



長い沈黙の後に、キャンディは泣きはらした真っ赤な目でゆっくりと顔を上げた。
「あなたが・・・悲しいなら、その原因をつくった人もまた、悲しんでいます・・。その人はもう十分な罰を受けました・・だからあなたがたは・・・その人を赦し・・愛して・・。テリィ、あなたも、、、お願い・・!」
キャンディがとぎれとぎれに言うと、テリィは眉をひそめた。
今キャンディは、スザナを赦せと言ったのか。
「――それは誰の言葉だ?」
「・・神様の言葉・・」
※コリント信徒への手紙より              
「神が赦せと言うから、赦さなきゃいけないのか?何故そんなことが出来る。殆ど全部、全部隠されたんだぞ!?何もしていない君が・・!君の気持ちを踏みにじっておいて、一言も謝りもせず―」
「私の為に怒っているというのなら、もうやめて!私はそんなの望んでないわ・・!―・・あなたはとっくに分かっているはずよっ、最期のスザナの言葉は懺悔でも贖罪でもない、あなたの幸せを願う言葉を口にしたスザナの・・・スザナの最後の愛だわっ―!」
テリィはハッとした。


――あなたはもうすぐ自由になるわ・・

 好きな所へ・・行って・・。思うまま・・、羽ばたいて―・・

「・・あなたはスザナが一番愛した人よ・・・。あなたが赦してあげなくてどうするの・・?私じゃない・・、他の誰でもない、スザナはあなたに赦してほしかったはずだわっ・・!」
枯れることのない涙を感じながら、それでもこらえようとキャンディは目元に力を入れた。
「・・・今からでも変われるはずよ。例え私と種類は違っても・・あなたのスザナへの愛に、偽りはないもの。・・スザナを、愛していたんでしょ・・?」
魂に訴えかけるようなキャンディの言葉に、テリィはゆっくりとまぶたを閉じた。


「・・・――分かった。・・君と神がそう言うのなら・・・」
キャンディの思念に打ち砕かれるように、テリィは携えていた頑なな感情を放棄した。


 ――キャンディ・・テリィ、 ごめんなさい・・ごめんなさい、・・愚かな私を許して・・

 


長い長い追憶の旅から戻ってきたようなキャンディの瞳には、スザナへの慰霊の涙が溜まっていた。
「・・・――わたし・・、知らなかった―・・そんな想いで・・旅出ったなんて―」
(二人の幸せを願っていたのに・・ただ・・かき回しただけだった・・)
せめて返事を書いてあげればよかった・・―
私の事など気にしないでって、私は大丈夫だって、返事を書けばよかった―
「―・・・ふあぁぁぁぁ・・・っ」
慟哭のような泣き声が部屋に響いた。
「・・――キャンディ・・・、・・・俺にぶつけろ」
キャンディはテリィの胸を叩くように跳び込んだ。
ただ悲しくて、哀しくて、もう何が何だか分からなかった。
――どうかスザナの魂が救われますように―・・
心の中で唱えたのか、大声で言ったのかも分からない。
・・・愛してる・・キャンディ―
テリィが何度も何度もそう言っている声が聞こえる。
「テ・・リィ・・」
顔を上げた瞬間、息苦しいほどの口づけを感じ、頭の中が真っ白になっていく。
しばらくすると泣き疲れた子供の様に、キャンディはテリィの腕の中に沈んでいった。

「そのままでいい・・。聞いて欲しい」
静かなテリィの声に、キャンディは夜霧に包まれているような状態で耳を預けた。
「―・・スザナを失って、道にはぐれたようになっていた俺の前に、入れ替わる様に一筋の道が現れたのを覚えている―・・。そしてその道に導いてくれたのは、スザナのような気がした」
(・・スザナが・・?)
「――あれは・・・葬儀に向かおうと玄関を出ようとした時だった」


『この季節にバラだなんて信じられない』
花束を抱えたメイドのひとり言など気に留めず、先を急ぐようにすれ違った時、花束からカードがヒラヒラと舞い落ちた。
『――あ、失礼』
カードを受け止めた時、メッセージが目に飛び込んで来た。


・・All my love  c.w.

イニシャルが目に入った瞬間、体が震えた。たった二文字のアルファベットなのに、懐かしさが押し寄せてきて、心臓がドクドクと高鳴っていくのが分かった。


(見覚えのある字。―・・キャンディなのか・・?)
『・・この花は・・誰から・・』
『スザナさんのファンという男性から直接届けられたものです。今ですよ』
『ファンの男性・・?』
(キャンディじゃないのか・・?)


急いでその男性を追った時、黒塗りの高級車が走り去るのが見えた。
誰も乗っていない後部座席、一瞬見えたナンバープレートの文字は 
illinois
イリノイ州―・・シカゴ―?
長距離を移動してきた跡なのだろう。泥が跳ね、高級車に似つかわしくないほど汚れていた。
一粒の涙さえ出ないほど張りつめ、憔悴していたあの時。
何の確証もなかったが、キャンディかもしれないと思った瞬間、頬に涙が伝った。
スザナへ届けられた物なのに、まるでキャンディが直ぐそこで、俺を慰めてくれているように感じて―


 ――・・愛をこめて  キャンディ

『・・キャンディ・・君は見てくれているのか・・。こんな時でも―・・』

そう実感した時、初めて思った。一年後の追悼式が終わったらキャンディに手紙を出すと。
・・涙が温かいと感じたのは、この時が初めてだった。



キャンディ
変わりはないか?
・・・あれから一年たった
一年たったら君に連絡しようと心に決めていたが、迷いながら、さらに半年がすぎてしまった―


結局一年半後になってしまったが、俺は手紙を書いた。最期のスザナの願いを叶えるためにも―

「・・イニシャル―」
不思議そうにつぶやくキャンディの声に、テリィは応えた。
「アルバートさんの指示で、ジョルジュがつけ足したらしい」
「・・っ・・また・・よけい・・な・・」
涙声のキャンディに、少しだけ余裕が戻ったのを感じたテリィは、万感の想いを込めて言った。
「・・スザナの胸に抱かせるように、その花とメッセージカードを添えた。・・きっとスザナには伝わった。・・そう思う。今は―・・」

 

 

 

8-10 白いばら

 

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ワンポイントアドバイス

 

「スザナを愛していたんでしょ?」というキャンディのセリフについて。

ナイチンゲールの言葉をご紹介します。

『愛というのは、その人の過ちや自分との意見の対立を許してあげられること』

 

 

「誰かを心底、愛してしまったら、きれいな気持ちのままではいられない・・」

はファイナルに出てきた、キャンディの言葉です。

キャンディらしくない言葉ですね。

これは30代になったキャンディがスザナに向けて言っているように感じますが

「今はスザナの気持ちがわかる気がする」と共感しています。下巻P218

 

キャンディがスザナに感じた汚い部分は「嫉妬ゆえに手紙を隠した事」だと思います。

なので、スザナの気持ちがわかる、と言っているキャンディも、スザナに嫉妬した事がある、と

当小説では解釈させていただきました。

 

この回で2章⑱に出てきたテリィのセリフの伏線回収がありました。

心当たりの無い方はご覧ください。

 

 

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