★★★6-8
広いルーフバルコニーに出たキャンディはしばらく顔を覆うように泣いていた。
頬を伝う涙が、キーンと鳴るような真冬の冷気にさらされ、顔が凍るように痛い・・。
全ての感情が凍りついたように、何も考えられなくなってしまった。
天上には冬の星座が一面に広がっている。
本宅の上に広がる雄大な星空。遮るものは何一つない。
キャンディは白い息を吐きながら、夜空を見上げた。

 



 ――あの時も星がきれいな夜だった。


別荘からなんとか脱出したところを、探しに来てくれたアルバートさんに助けてもらった。
アルバートさんの存在にどれだけ慰められたか・・。
安堵感と温かさを感じた一方で、失踪中のテリィは今頃独りでどうしているのかとふと考えた。
同じ夜空を見上げているなら、どうか願いを届けて欲しいと・・。

 

 ――苦しいのは私も同じよ・・。テリィ、戻って。

ニューヨークへ、スザナの元へ・・・ 



「寒い・・」
寒さの感覚が戻ってきたキャンディが身を縮めるように両手を抱いた時、北の空に北極星を見つけた。
「簡単に見つけられるわ・・」
アメリカまでの航海の途中、約束通りテリィは北極星の探し方を教えてくれた。
一日目はコツを掴むのに苦労したが、何度か洋上の夜空を眺める内に自然に目が行くようになった。
北極星、如何なる時も同じ場所にある星。
無心に空を見ていたら、テリィの言葉が聞こえてくるようだった。


 ――・・ぼくは何も変わっていない

この先もずっと・・。 

星に誓う・・、永遠の星の光に誓うよ。


目じりがじわりと熱くなったその時だった。
「夜露は体に障る。早く部屋に入れ。・・俺はもう戻るから」
背後から、頭にパサッとガウンが被せられた。
自分の頼りないシルクのガウンの上に、テリィのカシミヤのガウンが重ねられている。
「テーブルの上のパン、お腹がすいていたら食べるといい」
その言葉にキャンディはハッとした。
(・・パン?いつの間に・・?)
テーブルに置かれた青い包みが、テリィの胸のチーフだと気付いたキャンディは、体の芯に火が灯ったように、胸が熱くなるのを感じた。
緊張から殆ど箸をつけられなかった夕食会。そんな自分を隣で何度も気遣っていたテリィ。
一階、長い廊下の先にあるのは厨房。あの時テリィは真っ直ぐ厨房へ――?
(チーフにくるんで持ってきてくれたの?)
――そうだった・・。
テリィはいつも誰よりも私のことを考えてくれる。いつだって自分から動く。
礼拝堂でかばったくれた時も、身代わりで退学になってくれた時も、十年ぶりに手紙をくれた時だって。
呼び出して、じっと待っているような人じゃない。
ニールなんかと全然違う。顔も声も。
テリィの小さな癖も、しぐさも、誰よりも知っている。もう見誤ったりしない―
そう思った時、部屋の灯りが消されたのか、辺りが急に暗くなった。
振り向くと、テリィが部屋から出て行こうとしていた。
「待って・・!行かないで・・!」
かじかんだ唇から出された声は、まるで小夜鳴鳥の鳴き声ほどに儚げだったが、そのわずかな声に反応したテリィは、足を止めて振り向いた。
( テリィ・・、行かないで・・!もう間違えたりしないから・・!)
テリィを追う刹那が途方もなく長く感じる。
行く手を阻むソファが、テーブルが、これほど邪魔な物に思えたことはない。
掛けてもらったガウンが床に落ちたことにも気付かずに、キャンディはドアの前にいたテリィに跳ぶように抱きついた。
「――テリィっ・・!」
つま先で立つような不安定な体勢になったので、長く続けられないと思ったが、呼応するようにテリィは抱きしめてくれた。
「好きよ、大好き・・!」
体中の導火線に一斉に火が移ったように、体の隅々まで一気に熱くなっていく。
「こんなに好きなのに見誤るなんて、どうかしてた、・・ごめん、もう間違えないわ・・!」
キャンディは全身から湧き出る感情を伝えずにはいられなかった。
「・・見誤る?何のことだ?」
突然分からない事を言い始めたキャンディに、テリィは困惑した。
「私が・・忘れられないのを利用して、テリィが・・テリィが苦しんでいるのを利用して、テリィの名を語って、知らない別荘に連れて行かれたの。テリィはそんな人じゃないって頭では分かっていたのに、心配で・・見誤ってしまった・・。卑怯だわ!ニールが嫌いっ」
キャンディはこぶしを握り締めながら、涙でいっぱいの顔をテリィの胸にうずめた。
堰を切ったような告白に、テリィは事の全容が一気に見えた。
この事件はおそらく、自分が放浪していた頃に起きた出来事だと。
責任の一端は自分に有ると分かった瞬間、怒りの感情をはるかに上回るほどの強い自責の念に襲われた。
これ以上古傷をえぐるような真似は避けなければ―
テリィは「分かった、もういい―」と、追及をやめたが、キャンディは溢れでてくる感情が止められないのか、震えながら「ニールなんかに、私・・っ」強く唇を噛んだ。
「・・力をぬけ、そんなに噛んだら血がでるだろ」
キャンディを制止させるように、テリィはキャンディの唇に自分の唇を重ねた。
いや、テリィが実際に制止させたかったのは自分自身の方だった。
テリィの心中が穏やかであるはずがない。
別荘に連れて行かれ、そこで何があったのか――
(事と次第によっては、ニールの奴、ただではおかない・・!)
今すぐニールを締めあげたいと思う程の強い感情をぐっと押し殺し、キャンディを抱きしめた。
「・・考えるな、あんな奴のことなんか。俺のことだけを考えろ、愛されていることだけを―」
「―・・愛されているの・・?わたし―・・・・隠してたのに」
「愛されてるよ、こんなにも・・。誰が責める、俺への気持ちを逆手に取られて」
テリィになだめられ、キャンディは次第に落ち着きを取り戻していった。
本来気分屋のテリィが色々な感情を一旦脇に置き、慰めてくれているのが手に取る様に分かる。
これ以上テリィを振り回したくない――
一筋の涙と共に、消え入りそうな声でキャンディは言った。
「・・ニールとは、何もなかったから―・・・心配しないで・・・」
「本当に?」
「・・アルバートさんが、全て知ってるわ・・」

――ううん、違う。こんな言葉じゃダメだ。

キャンディはテリィを安心させたくて、恥じらいを抑えながら小さな声で言った。

「・・・テリィが一番知っているはずよ・・・私に、何もなかったことは」

ハッとしたようなテリィを見て、キャンディは自分が大人になったのだと感じた。
抱き寄せられキスされることなど、挨拶でもするような取るに足らない事だ。それなのに今これほど生々しく嫌悪感を抱いたのは、単にニールが嫌いとか卑怯とか、そんな理由だけではないと。
――テリィのせい・・。
愛すること、愛されることを五感の全てで感じるあの甘美な時を知ってしまったから。
今なら分かる。あの時の自分がどんなに危うい状況にあったのか。
「何もなかったのなら・・、よかった―」
テリィの声を聞いた時、悔し涙とも安堵の涙とも分からない涙が再びこぼれた。

壁にもたれる様に立っていたテリィは、天井に向かって大きく息を吐いた。
(・・同じ状況になったら、俺も罠にはまってしまっただろう・・。かつてのように)
「ごめんな、キャンディ・・」
テリィはおもむろに口にした。
(その涙は、俺が与えてしまった余計な苦しみだ・・)
「・・なんで・・あなたが、謝るの・・?」
テリィの意外な言葉に、キャンディはゆっくり反応しテリィの顔を見上げた。
「俺がいけなかった・・。そもそも俺が自分を見失っていた。君との別れが消化しきれず、自暴自棄になっていた。俺がしっかりしていればそんな事には・・。だから、君が見誤るのも無理もないんだ」
悔しさをにじませるテリィに、キャンディは力なくテリィに預けていた自分の身体を自立させた。
「あなたのせいじゃないわ!テリィがそうなったのは、私が身勝手に別れを選んだせいだものっ、・・謝るのは私の方。ずっと謝りたかった・・――ごめんなさい。私が・・あなたを長く苦しめてしまった・・」
予想もしなかったキャンディの言葉にテリィは驚きを隠せなかった。
「・・そんなことを、・・思っていたのか・・?」 
テリィはキャンディの身体を抱き寄せた。
「それは違う。別れは二人で決めた事だ。あれ以外の選択肢などなかった。何度やり直しても俺たちは同じ選択をしただろう。だから後悔などしていない。気にするな」
落ち着いたテリィの声がじんわりとキャンディの心に沁みわたる。
「・・・でも、あなたは苦しんだでしょう?」
テリィはかすかに笑った。
「ああ、苦しかったよ。恋はため息と涙でできていると、シェークスピアも言っている。・・でもずっと苦しかったわけじゃない。キャンディがいない時間にも意味は有った。きっと君だってそのはずだ」
キャンディはスッと肩が軽くなるのを感じた。
・・その通りだ。
アルバートさん、ポニー先生、レイン先生、ポニーの家の子供たち、マーチン先生、村の人たち・・
温かい人たちに囲まれて過ごした日々が無意味であるはずがない。
むしろ、それがあったからこそ今があるように思える。
テリィと別々に生きた十年間は大切な宝物だ―

「・・アルバートさんと厨房で遇ったんだ。アルバートさんも、きっと君に食事を届けるつもりで。その時言われたよ。自分の書いた台本にキャンディがご立腹で、噛みつかれそうになったから助けてくれって。特別に外出許可を出してくれた」
テリィはおどけるように口元を緩めた。
「・・だって、あれじゃあまりに―」
キャンディは顔を赤らめながらも否定しない。
「大胆過ぎて事実と違うって?・・俺はそうは思わなかったよ。むしろ一番演じやすいと思った。心は顔にでる、言葉にでる。俺の心情に沿った台本が、結局一番無理がない」
「心情に沿った台本・・?あれが・・?」
「この十年・・俺には確かに色々あった。それをバッサリ切り捨てるような台本に、君やアーチーが抵抗を感じるのも無理はない。だけど俺達二人の物語を語るのに、やはり十年は単なる空白でしかない。詰めてしまった方が観客には分かりやすい。俺と君は学生時代に出逢い、アメリカに渡り、ずっと想い合い、結ばれた。そこに嘘はない。・・もし他の台本だったとしたら、俺は早速嘘をつかなければいけなくなる。スザナを愛していた、という嘘だ。さすがにそんな芝居は、・・できない・・」
その言葉はキャンディの心に真っ直ぐ刺さり、どんな説明よりキャンディの心を即座に動かした。
「・・分かったわ。わたし、お芝居の脚を引っ張らない様に頑張る」
キャンディが小さな笑顔を見せると、テリィは安心したように微笑した。
「――といっても、全米公開するわけじゃないさ。記者連中に説明するつもりもさらさらない。・・だけど、もう主演男優を見間違えたりするなよ?ニールじゃなくて、俺だからな」
「・・似ても似つかないわよ」
キャンディは甘えるようにテリィの広い胸に顔をうずめた。
「よく言うよ、さっきだって俺とニールを間違えて、ひっぱたいたくせに」
「もう間違えないわよ・・、ニールの頬にはね、あの時私がひっかいた爪痕が残ってるの」

「頬に・・・?――それは、俺だったら俳優人生に関わる危機だな」

おかしそうに言うテリィの傷一つ無い頬を眺めながら、キャンディはテリィの胸の古傷をツンとつついた。

「傷跡一つで、テリィだって分かるわ・・・」
「・・俺だって」
「私に?どこ・・?」
「君の体に傷跡はない・・。ほくろが一つあるだけだ」
そんな事を言われると、キャンディの体は熱くなる。
そう、お互いもう全部知ってる。小さな癖やしぐさも―・・。
「もう間違えないわ。暗くて何も見えなくても、・・分かるから。あなたは私の北極星だもの」
そう言ってキャンディはテリィのシャツのボタンを一つ外し、そ古傷に口づけをした。
「・・きみ、そこにキスするの好きだね」
キャンディは微笑みながら「―・・心音が聞こえるの。テリィを近くに感じたいの」とおどけてみせた。
公爵夫人が小さなテリィに付けた傷など、キスで消してあげたかったからだ。
「――なら、俺も」

テリィは有言実行とばかりに、キャンディの粉雪のような肌を次々に愛撫した。
「・・ぁ・・、テリィ―・・今夜は・・、この階・・大おばさまの部屋が・・・あるの―・・」
それが何の関係があると言わんばかりに、ドアの鍵に手を伸ばしたテリィは
「こんな・・一秒で脱げてしまいそうな服を他の男から貰うなんて、やっぱり嫌だ・・例えアルバートさんでも」と本音を漏らした。
キャンディは微笑すると、テリィの手を誘導するように、カチャッ・・と静かに鍵を掛けた。
「―・・仕方がない人ね・・」
伏し目がちにネグリジェの肩布をずらす。
・・やわらかな布がパサっと床を擦る音がする。

暗闇に浮かび上がる、大理石のように白く滑らかな体―
「きて、テリュース。・・私を見間違えたりしないのよね?」
自ら一糸まとわぬ姿になったキャンディは、恥ずかしそうに小さく両手を広げた。
白と黒の陰影が、まるでビーナスの彫刻のように美しい―・・
「・・背中のホクロを知っているのは俺だけだ。間違えるわけがない」
言った瞬間、今まで抑えていたテリィの情欲が一気に弾けた。
「もう、誰にも見せるなよ――」
打ち上げパーティの背中のあいたドレスを思い出し、その指先は真っ先にホクロに触れる。
外泊許可を貰えばよかったな、と後悔しながら――




 6-8  北極星

 

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