★★★1-4

思い出ごと封印したあの日からちょうど六年が経つ。引き出しの鍵はずっと閉められたままだ。
あれ以来、一切の邪念を捨てるようにテリィとスザナの幸せを祈ってきた。
ブロードウェーのスター、テリュース・グレアム。
もう手の届かない存在。それが今のテリィ。


 ――ぼくは何も変わっていない

突然手紙の文字が頭に浮かんだ。
「・・あ、そうか。手紙が来たんだったわ。昨日――」
あれは夢だったかと一瞬思ったが、確かに封を切った覚えがある。
朝起きた時、机の上には確かに白い封筒が置かれていた。
「・・え・・、現実・・?変わっていない?・・え?・・何を言っているの」
凍結していた血流が一気に全身を駆け巡ったように、突如頭が鮮明になり、心臓がドックンと脈打った。
「――まさか、・・そんなこと有り得ないっ!」
別れてから十年も経っている。しかもテリィにはずっとスザナがいた。
つい最近も、共演の女優さんと噂になっていた。
「そうよ・・テリィはスザナを愛してた。・・今だって、新しい恋を―・・テリィは、誰もが知るスターなのよ。それに比べて私なんか、田舎の、ただの看護婦で、だから、そんな意味じゃ・・ない」
あらゆる否定材料を口にしながらも、ぐちゃぐちゃの頭の中では明確に一つの答えがはじき出されていた。

テリィの言葉が、何を意味するのか――
「それなら、あの婚約はなに!?――まさか、事故の責任をとる為!?」
そう思った瞬間、全身の力が抜け、キャンディは床に倒れ込んだ。
握っていた新聞の束がバサバサと舞い落ちる。
その時だった。
診療所のドアがギギギ・・とおもむろに開き、びしょ濡れのマーチン先生が往診から帰ってきた。
「あ~、ひどい雨だったわい。キャンディ、留守番ご苦労様。誰か来たかの?」
マーチン先生は濡れた体をタオルで拭きながら声を掛けたが、聞こえていないのかキャンディは呆然と床にしゃがみ込んでいる。明らかに様子が変だった。
「キャンディ・・、気分でも悪いかね?」
「――あ・・いえっ、すみません。待合室を・・片付けていただけ・・です」
思い出したように手を動かし始めたキャンディに「そうかい、それはごくろ―」と言いかけて言葉を止めたのは、見開いたままの新聞が床にバラバラと散乱し、明らかに往診に出る時よりも散らかっていたからだ。
マーチン先生の口が半開きになったまま、呼吸するのを忘れていると、再びキャンディの動きが止まった。
緑の瞳が追う先は、若手俳優が舞台で演技をしている写真のようだった。


テリュース・グレアム主演 「ハムレット」

春のニューヨーク公演スタート!!

「・・・この俳優が好きなのかね?男のわしでも惚れ惚れするようないい男だ」
何気ないマーチン先生の一言に、キャンディの体はビクッと反応した。
「・・す、好きかどうかなんて、分かりません!!やめてくださいっ・・!」
過剰な反応をするキャンディに、マーチン先生の広い額からじわっと汗がふき出した。
「・・あ、すまん、・・別に深い意味はない。気にせんでくれ―」
しかしマーチン先生はとっくに知っていた。
この俳優のデビュー当時の切り抜きを手帳に挟み、常にバッグに持ち歩いていることを。
物置に積まれた雑誌の山も、この俳優の載った記事ばかり。
(・・いまさら隠さんでも―・・今日のキャンディはどうも変だな・・)
マーチン先生は石清水のようにわき出てくる汗を拭いながら、新聞の方をチラッと見た。
新聞も雑誌も先生が買っているのではない。
村のような閉鎖的な場所では情報も不足するだろうと、アードレー家の総長が親切にも年間契約してくれている。定期的に配達されるのは喜ばしいが、有名人のタブロイド紙ばかりでなく、医学方面の冊子も混ぜて欲しいというのが本音だ。
(・・・アルバート君もどこか抜けてるの・・)
散乱した新聞を片付けようと、マーチン先生が手を伸ばした時、
「・・男の人って・・大義名分があれば、愛が無くても結婚できるのかしら・・」
独り言なのか、質問なのか、あまりに唐突な言葉がキャンディからとんだ。
マーチン先生は小さな目をぱちくりさせながら
「何を言っておる、男でも女でも関係あるまい。結婚には愛が無いといかん、神様がお認めにならんよ」
至って普通に答えた。
「・・いえ、間違えました・・愛が、・・なかったわけじゃないと思うんです。・・一番じゃなかったかもしれませんが・・。そういう自覚があっても、結婚する人って世の中にはいるんでしょうね・・」
キャンディはテリィの行動の正当性を強引に認めようとしていた。
そんな話は世間に山のように転がっているのだと。
「いるかどうかは知らんが、一番じゃないと自覚がある時点で、神への冒涜じゃ。上手くいかんな」
「でも―!彼女はとても優しくて美しくて、側で支えてあげないと倒れてしまいそうなほど―」
反論の言葉を羅列するキャンディに、マーチン先生の白髪交じりの眉毛が垂れた。
「キャンディ、恋は目や条件から始まる事もあるだろうが、愛は心じゃろ。金も容姿も関係ない。そんな事、キャンディなら百も承知のはずじゃ」
マーチン先生の容赦ない正論がキャンディの胸につき刺さる。
言われるまでもなくキャンディには分かっていた。でも今は認めたくない――
「・・幸せにはなれない、ですか・・。その人も、相手も・・?」
「・・結婚が幸せを連れてくるんじゃないからの」
その答えに、キャンディは言葉を返せなかった。
「・・それはあの時の話かね?」
過去の事件を思いだしたマーチン先生は、逆にキャンディに問い返す。
「――あの時・・?」
キャンディは何のことだか分からなかった。
「シカゴにいた頃だったか、ほれ、どこかの御曹司と無理やり結婚させられそうになったと騒いだ時があったろ?結局アルバート君が助けたとかで・・」
マーチン先生はニールとのあの忌まわしい事件のことを言っているようだ。
好きではない人との結婚など有り得ない。過去の自分の行動がそれを証明している。
「ち、違います、・・あの時の事ではっ」
キャンディは答えながら、ハッとした。
(・・違うと、言い切れるの?)
愛のない婚約、相手からの一方的な好意という意味では、同じではないか――
みるみる青ざめていくキャンディに、マーチン先生はフクロウのようなふさふさの眉毛を更に下げた。
もしかしたらあの時と同じような状況が、キャンディの身に降りかかりつつあるのかもしれない。
それならこの変な質問にも合点がいく。
そう考えたマーチン先生は気持ちを引き締め直し、諭すように言った。
「・・恋はなかなか思い通りにはいかんからの。しかし人の心は変わる。言葉一つで嫌いになる事もあれば、恋に落ちることもある。二番の人が一番に繰り上がることだって大いにあるぞ?早まったことはせんでも、機が熟すのを待つことだ。お互いが一番になるまで」
マーチン先生の脳内で勝手に作られた台本が、どんなストーリーだったのかは定かでないが、キャンディは先生のある言葉に強く反応した。
「・・心は変わる・・?」
確かにあの時、そう思ったかもしれない。
私さえ身を引けば万事上手くいくのだと。
恋の跡は時の流れと共に風化し、やがて新たな恋が芽吹くのだと―
だからあの時、テリィに向かって私は言った。

 ――スザナを大切にしてあげてね
テリィの心が私の方に向いていると分かっていたのに、それでも掛けた言葉だ。
だけど・・

  ――ぼくは何も変わっていない
(あなたの心は変わらなかったの・・?)
だとしたら、テリィはどんな思いでこの年月を――

 

画像お借りしました
 

「・・・わたし、バカだ・・・」
自分の楽観的な性格が、恨めしくなった瞬間だった。
手紙を読んでから感じていた胸の痛み。その原因がようやく分かった。
何も変わっていないというテリィの心を知った時、同時に十年分のテリィの苦しみを直感的に感じ取ってしまったからだ。
(私は、テリィを・・苦しみの中へ置き去りにしてしまったの・・?)
そう思った時、全身が凍りつくように震えた。
「・・なんてことを・・わたし・・」
私は十年前のテリィの苦しみを知っていた。
別れた後、芝居が乱れ、公演が打ち切られ、どこかへ逃避行してしまうほど悩み苦しみ、ロックスタウンであれほど哀れなテリィの姿を見ていたのに、手を差し伸べることもせず、声を掛けることもせず、ただ黙って立ち去ってしまった。
一人の女優の将来を台無しにしたという十字架を、テリィ一人に背負わせて――

突然放心したようなキャンディの様子に、マーチン先生は戸惑った。
「・・キャンディ、何かあったかの」
肩をたたかれたキャンディはハッと我に返った。
「・・いえ、大丈夫です・・、すみません」
「――キャンディ、心配せんでもお前さんは支えがないと倒れてしまうような軟な娘じゃないぞ。ほどほどに美しく、それなりに優しく、人一倍たくましく」
先生なりに慰めたつもりだったが、キャンディには意味不明の雑音にしか聞こえない。
「もういいです、それより先生少しだまっ―」
振り払うように立ち上がろうとしたが、新聞を踏んでしまい、足元が滑ってスタンと前のめりに倒れてしまった。

「キャァ!!」
「大丈夫かっ、キャンディ!」
「・・・いたたたたぁ~、、、ほら、私だって倒れますよ・・」
低い鼻を抑えながら立ち上がったキャンディを見て、マーチン先生には大丈夫には思えなかった。
鼻血が出ていたからではない。
「こんな天気じゃ患者も来んだろう。今日はもう終わりにしよう」
早くいつものキャンディに戻ることを祈りつつ、その背中を見送った。
    

                     

 

1-4  待合室で 

 

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ワンポイントアドバイス

 

マーチン先生の声についての不思議現象

殆どの人が記憶に残っていないであろうマーチン先生の声。

次の文を読むと、不思議な現象が起こります。

 

「マーチン先生の声は、コナンに出てくる阿笠博士ではありません」

 

はい、もう一度小説を読んでみてください。

マーチン先生は阿笠博士になっています。

※発見者は紫猫さんでした。

 

 

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