体感器を背負った面白いヤツラ~パチンコ・攻略プロ達の青春回顧録 -6ページ目

体感器を背負った面白いヤツラ~パチンコ・攻略プロ達の青春回顧録

1990年代バブル経済末期、世間の流れとは関係の無い処で暗躍していたネタプロ(攻略プロ)達のアップダウンな日常風景

『どうする?』

我々3人はホテルの部屋へ戻って”軍団”からの誘いについて話し合っていた。


軍団のメンバー”ヒゲ”がよこしたケータイ電話の番号を書いた紙片を見ながらヨシローが云った。

『どうするも何も、取り敢えずは連絡してみるしかないだろう。アイツらだって他所から旅で来てるんだから、打つなって云われる筋合いじゃねえしな』


『イヤ、そこまでは云わんだろう。もしも、俺達を追い出す気なら最初からそうしてるだろうし、ココは額面通り話し合いって考えていいんじゃないか? 確か”話がある”そう云ってたんだよな、キョウスケ?』

タクミがベッドに横になりながら顔だけこちらへ向けて云った。


『うん、確かに。しかし、豪(えら)く上から目線って云うか、横柄って云うか・・・。どうも不穏な感じだったけどナ』


『まあよ、取り敢えず連絡してみてからの話だな。後はアイツらの出方次第で考えるしかあるまいよ』

そう云うとヨシローは、ケータイを取出して紙に書かれた番号へかけだした。


すると、まるで待っていたかのようにスグに相手が出た。


『あのお、さっき電話番号もらって・・・いや、そうじゃなくて、そいつは仲間で、俺は・・・』どうやら向うはヨシローと僕を勘違いしているようだ。

『ええ、そうです・・・判ります、判ります。こっから20分ぐらいっすねえ・・・んじゃあ、ちょっと仲間と相談してからでイイっすか?ええ、また折り返し電話しますんで、じゃあ』


電話を切ると、ヨシローは緊張の解けた表情で云った。

『えらく、フレンドリーなカンジだったな』


どうやら、向うは自分たちの泊まっているホテルで晩飯でも食べながらどうか?と云って来たらしい。


『どうやら、そんなに敵対意識を持ってるワケじゃあなさそうだな。しかし・・・』

タクミは今一つ腑に落ちないといった様子だ。


『意外とアイツラもコッチのことを警戒してんのかもしれないぜ!?』

ヨシローは気が抜けたといったカンジで水をゴクゴクっと飲むとオドケタ表情で云った。


確かに”食事でもしながら”なんてズイブン気の抜けた話だ。が、ヒゲと会った時に感じた何とも云えない不快感が、不安感が、僕の中でどうしても消えなかった

だが、この状態では、出向いて行くしかないのだ。


コレが相手方の事務所とか云うのなら我々も警戒して出向いたりしないが、場所は街中のホテルなのだ。

敵地に乗り込んで行くのはあまり得策とは云えないが、まさか、いきなり捕って食われるわけでもあるまい。

そう考えて、我々3人は”食事会”へ出向くことにした。









サテ、前回は途中から思い出話になってしまい申し訳ありません。

今回からまた本編に戻ります。

遠征先のH店でどうやら自分達以外にも旅人(しかもスジ絡みの可能性のある本職グループ)がいることが判り、その折衝に頭を抱えながらもH店でのシゴトに取り掛かった我々3人でありましたが・・・。



朝一から出張って、やや緊張気味だった我々3人だったが、昼過ぎになっても何の音沙汰も無かったので、スッカリ気抜けしてしまった。


その時点で、3人の出玉合計はノルマ(旅打では1人平均5万円が我々のノルマ目標だった)に達しており、普段ならいかに旅打のエトランゼとはいえ(次回の事を考えて)あまり深くは追いかけないところなんだが、なんせ場合によったら明日は打てなくなる可能性があるのだ。我々は連チャン取りをやや抑えながらも、昼食休憩を挟んでそのまま続行した。


(本職グループとの絡み次第では、我々は他の地域に移動しなくてはならない以上、バレ元とまではいかずとも、それなりに抜いておきたい)



夕方の6時過ぎ辺りだったろうか、何事も無く打ち切ることが出来、ヨシローが大台の10、タクミが8、そして僕も7ほどのプラスを計上して、1人当たり7ツの日当が出ていたと思う。(単位は万)


(そろそろアガろうか?)我々はお互い目配せで示し合い、先ずヨシローが、次いでタクミが席を立ち、少し経って僕も頃合いを見計らって腰をあげようとした時だった。

『調子エエですねえ、お兄さんたち』関西訛りでそう云いながらサンドに500円硬貨を入れ、右隣にヒゲ面の男が座ってきた。


確かにそのヒゲ面は『お兄さんたち』と云ったのだ。


離れた席に座り、店内では決して口も利かない、服装もバラバラの我々3人が実は仲間だという事を知っているぞ、彼は僕にそういう事を云ったのだ。


一瞬ドキリとしたが、僕は表情を極力崩さずに目線だけを盤面のガラス越しに彼へ向けた。


彼も(ガラス越しに)コチラを見て口の端を少し歪めて笑っている。


(なんとも嫌な笑い方だ)


ヒゲが判断を邪魔しているが、歳の頃は我々と同じ20才チョイか精々27,28といったところだろうか。

恐らくは”軍団”のメンバーであろう。

こんな遅い時間から打ち始める訳はないから、多分偵察に来たのだ。

ヨシローやタクミは先に車へ戻ってしまっている。どうする?

そんな事を思案していると、ヒゲは小さな紙片を僕のドル箱に投げ入れてユックリ席を立ちながら云った。

『シゴトが終わってからでエエから、連絡してヨ。ウチの大将が話あるから』

彼が立ち去り、店から出て行くのを確認してからドル箱の紙片を開いてみると、そこには『090-3**7-*8*3』当時まだ珍しかったケータイ電話の番号が書いてあった。



次の日我々は開店と同時にH店に入った。

いつもなら開店から1,2時間経って店が落ち着いてから入るんだが、この日は例の”軍団”を意識して(少しでもアドバンテージを持とうと)朝一から入ったのだ。


観たところそれっぽい人間は見あたらない。

(流石に朝一からは来ないよな。1,2時間後か・・・)

僕・タクミ・ヨシローの3人は台を確保してコーヒーを買いに行ったり、店内をブラブラしたり、機械の動作チェックしたりしながらスタートの音楽が流れるのを待っていた。


そういえば昨日の2人組の姿も見当たらない。

(ヨシローにカマされたのが堪えたのかな・・・ちょっと気の毒な気もするなあ・・・。後からでも来れば声の1ツも掛けるんだけどな・・・)

ボンヤリそんな事を考えていると店中にF1のテーマ曲が流れて出したので、僕はキカイのスイッチをゆっくり入れた。


それにしても、この頃は日本全国どこのパチンコ屋に行っても、開店の合図には『F1のテーマ曲』か『サッカーの音楽』ばかりだった様な気がする。

当時はTVや新聞を眼にする様な生活ではなかったので、世間の流れは判らなかったけど多分F1とサッカーが流行ってるであろう事位は、こういう処から気が付いたな。


今から思い返せば、この頃(1990年代)は世の中全体が大きく移り変わって行く過渡期だった。

終身雇用や年功序列が崩れ、派遣社員やアルバイトで正社員と同等かそれ以上の稼ぎをあげるフリーターとかいう生き方が出回り始めたのがこの頃だったと思う。

働きたい時だけ働き、休みたい時に休む。

仕事に飽きたら気軽に転職。

仕事なんて腐るほどある。


今のご時世から考えたら、まるで夢物語の様な話だが(実際それは経団連が正社員を削減する為に創り出した虚像だった)、あの頃世の中全体がバカになってたんだ。


褐色がかった茶髪に、コンガリ焼いた小麦色の肌と異常に細い眉。

下着が見えそうなミニスカとブーツ。

当時は右を向いても左を向いても、そんなコばかりだったな。


そういうのを何て云ったかな、確かね・・・アムラ―、そうそうアムラ―とか云ってたんだよ。

女子高生は皆ルーズソックスにローファー・・・学校が終わると駅のトイレで化粧をし、制服のスカートを折り込んで丈を短くしてから遊びに行ってたっけ。


テレクラやQ2で稼いだ”お小遣い”で年齢不相応なブランドモノを身にまとって闊歩するメス達と、これまた身分不相応な高級車を乗り回してメス達に群がるオス達。


世の中全体が狂ってた。


一生懸命、汗水流して働くなんて云うのはバカのすることであって、軽く、スマートに、ボタンをポンって押して『ハイ、一丁あがり』みたいな、そんな生き方が当時の”トレンド”だったんだ。


パチプロなんて云う連中は、世間から見れば唯の怠け者・遊び人に過ぎないのだろうが、彼らは彼らなりに真面目だったんだと思う。

少なくとも僕が出会った奴らは、そうだった。

イヤ、むしろ平均以上に内面が繊細だったり真面目だったりしたから、普通の人生からドロップ・アウトせざるを得なかったのではないか?


当時の狂った世の中で、彼らは何かを探していたような気がする。

何も掴みどころのない毎日の中で、何処かに確かなモノを求めていた。

伸びきったゴムのようなユルユルな人生に、何かタイトな刺激が欲しかった。


それが、たまたま攻略プロという様相を呈していただけなのだ。

       (中断)


当時の記憶を辿っていたら、いつの間にか脱線してしまったようです。

ひょっとしたら、僕は未だあの頃にいて、夢から覚めていないのかも知れませんね・・・。


つづきは、この次ということで、あしからず・・・。






地元の学生プロ達を巧くカマシアゲた後、アレコレこの地域の情報を聞き出したところによると次のことが判った。


<1>この地域には所謂”本職”がおらず、たまに旅打ちで他所のプロが来るぐらいであること。

<2>だから、あまりH店は被害を受けておらずアレマン攻略に警戒が無い。

<3>H店から約10キロ離れた場所にアレマン設置店(仮にM店とする)がもう1軒ある。

<4>そして、そのM店とH店には我々と同じく他所からの旅打グループがココ2週間ほど交互に抜きに来ている。

<5>コレはどうでもいい事ではあるけど・・・彼ら学生プロがアレンジマン(時給¥1万)ではなくムーンライト(時給¥2000)を打っていたのは、ネタをマスターしきれなかったからだった(笑)


サテ、困った。

宿に帰り僕らは頭を抱えた・・・当然<4>のことだ。


学生プロに話によると5~6人のグループらしく、皆僕らと同じ位の20代のアンちゃん達なのだが、1人だけ打つでもなく何をするでもない30歳後半~40歳位の男がいるらしい。

『・・・多分、そいつがアタマだな。』

タクミがポツンと云うに合わせてヨシロ―が続ける。

『しかも、なんかヤバそうな雰囲気だ。どうも組織で動いてる連中っぽいぞ』

そうなのだ、通常攻略プロなんて云うのは皆一匹狼な奴ばかりで、ナカナカの事では団体行動なんてとれない。

精々がとこ今回の僕らの様に2,3人での行動がやっとこのはずで、それも旅懸け位に限られる。

それが5~6人で、しかもアタマがついて仕切ってるっていう事は・・・それ相応の組織だった攻略グループである可能性が高い。

そしてそれはスジ絡みを意味するのだ。

としたら、我々の様な何のバックも持たない人間には、交渉の余地も術も何もない。

今日H店でバッティングしなかったのは、偶然だったのだ。

明日にはH店に抜きに来るだろう。

サテ、どうしたものか・・・。


『考えててもラチがあかない。とりあえずは明日もう1度H店に行ってみて、かち合ってからの話だろうな。まさか、このまま別の土地に移動するわけにもいかんだろうよ』

ヨシローの言葉にタクミも僕も肯くしかなかった。




パチプロと云っても開店・攻略・ヒラと打ち方で違いがあるけど、僕の経験ではこの中で一番簡単なのは攻略だと思う。

同業者やゴト師との折衝やスジ者との付き合いといった独特の難事はあるものの、基本的に攻略プロが稼げるか否かはネタの有る無しで決まる。

キカイネタというと何やら難しいかの様なイメージでとらえられていたけれど、実際にはキカイのセッティングなんて中学生程度の頭ぐらいしか使わない。


にも拘らず『キカイ攻略=難しい』といったイメージが一般的だったのには原因が幾つか考えられるが、その1ツは、おそらく当のネタプロ達による新規参入者を増やさないが為の三味線だったんじゃあないかと思う。

2ツ目には(多分、コチラも真実だと思うが)、実際に彼らにとっては”難しかった”のかもしれない。

と云うのも、今の様にパチンコがフリーターのバイト代わりの時代と違って、当時はネタプロに限らずパチンコなんかで喰っていく奴なんてのは、ほとんどが暴走族あがりのチンピラや前科持ちといったアウト・ロウばかりだっから、中学すらマトモに出ていないのが普通だったのだ。

だから、一寸した四則計算でも判らないし、ましてや分数の概念になるとチンプンカンプンなのだ。

彼らにとってはキカイの扱いが難しかったのかも知れない。

そして3ツ目に云えるのは、彼らネタプロ達のプライド―俺達こそが1番偉いプロなんだ―もあったと思う。


話が逸れてしまったが、要するにネタさえあれば攻略なんて誰にでも出来たのだ。


開店廻りに至っては、あんなもん学生でも出来る(元々僕はそうだった)。

仕事と云えば開店までジッと並んで待ってるだけだ。

今では考えられないが、その当時の開店は余程の事が無ければカネになったのだから、これほど楽な事は無かった。


だが、開店でも攻略でもない平常営業で凌ぐヒラ打ちは相当な技量が無いとやっていけない。

クギはシビアに見ないといけないし、ルールとの関係で日当計算も細かくしないといけない。

何よりも打てる台を探すのが一苦労だ。

ネタプロや開店屋達がドンドン廃業したり、ゴト師に転向したりしていったのは、ヒラで喰うのがそれだけ難しいという事でもあるのだ。(僕がネタバブルの終焉とともにパチンコから足を洗ったのもコレが原因)


そんな難しいヒラ打ちで長年凌いでいるのが安田一彦さん。

田山さん亡き後、誌上プロではこの人がトップなんじゃなかろうか?

僕が現役だった当時は安田さんを初めとして色んな誌上プロがいたけれど、結局最後まで真っ当なポジションで残ってるのは安田さんだけだ。


攻略プロと云っても下地となるヒラ打ちがキチンと出来なければ、例えいいネタがあっても『猫に小判』だ。


僕は途中からキカイネタに頼るようになってヒラで打つことから遠ざかったけれど、いつも何かあった時や迷った時には安田さんの日記を見返したりして慰められたり、喝を入れられたり、そして勇気づけられたりした。


とても恩義のある、心の師匠と云ってもいい方だ。