ナク *幕* | 恣意的なblog.

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運命は我らを幸福にも不幸にもしない。
ただその種子を我らに提供するだけである。
Montaigne





ナクにはお兄さんがいた。

兄妹の歳の差はだいぶ離れていて、お兄さんはすでに働いているようだったが、ナクはあまり詳しい話しをしたがらなかった。
お兄さんのことに話しが及ぶと不意に悲しそうな表情を浮かべ、鬱ぎ込んでしまうことが度々あった。
お兄さんというのはナクと付き合う前から人伝に噂を聞いていたぐらい、地元では素行の悪さで有名なグループの一員だった。

付き合った当初、ナクのお兄さんがそのグループに所属していることを聞いて驚きはしたものの、それでも僕にとってお兄さんの存在はその事実以上のものではなかったし、妹と付き合っているからといってお兄さんとの接点は然う然う無いだろうと考えていた。

僕の友達にも悪い奴は沢山いたが、お兄さんが所属しているグループとは悪さの質が比較にもならなかったと思う。
その友達曰く「悪さのレベルが違うんだよなあ、あいつらは全て暴力で解決しようとしやがる」警察沙汰になることも辞さない、そんな輩を皮肉っているようだった。

要するに強いグループなので逆らわないのは勿論のこと、ナクとの関係を案じて、絶対に関わり合いになるなよとの忠告だった。
ナクの両親も息子にはかなり手を焼いている様子で、高校時分のナクが家を出たいと言っているぐらいなのだから、家庭内の雰囲気たるや陰鬱なものだったのだろう。

それがナクの家庭がうまくいっていない大きな理由だった。


季節は夏真っ盛りで、あまり余計なことに気を取られてばかりはいられず、僕たちは短い夏を楽しむことにした。
早起きした夏の朝の清清しさが好きだった。
何か楽しいことが待っているような予感、期待は蜃気楼の現れと共にうだるような暑さしか運んではくれなかったけれど、それでも朝の爽やかな風や香りは気分の高揚をもたらしてくれた。
そして夏の開放感の助けを得て、オガワとのダブルデートを強引に押し切る形で実現させた。

四人で僕の地元の夏祭りに足を運んだり、打ち上げ間隔の長い忘れた頃に打ち上げられる花火に焦らされながらも、その長閑な時間を楽しんだ。
風によって煙が流され、黒で塗られた視界いっぱいに広がる画布の上で瞬く花火はとても綺麗だった。

光芒を放ちながら昇る赤玉、花火の爆発により光が一閃し、炎色反応によって生み出された色鮮やかに続く煌き。
それによってナクの照り映える薄紅色の頬や、陰影によって作用される肌の質感は、ナクの表情を目まぐるしく変化させた。
仕舞いに暗転し、空に舞い散った一連の非現実な物語は、心に陶酔感をもたらした。

ナクの髪を上げたその浴衣姿に見とれた僕は何度草むらに足を取られそうになったことか。
それを見て笑う化粧をしていないナクの素顔はあどけなさが存分に残り、浴衣姿と相まって清楚で幼気な印象を与えていた。

手を繋ぎ歩きながら聞こえる下駄のカランコロンとした音色がとても心地よく、それを知っているナクはわざとタイミングを外し、音色を変えて笑わせてくれたんだ。

一度鼻緒を直す役回りを演じてみたかったが、そんな都合のいい演目が手配されることはなかった。
そんなことを考えながら賑やかな帰り道をしばし楽しみ、来年の夏は四人で海へ泊まりに行く約束を交わした。
僕とナクの幸せな短い夏はあっという間に過ぎていった。


「最近の家庭の状況はどうなの?」学校の帰り道、ナクが少し落ち込んでいる様子だったので聞くに臆したが、意を決して直接的な質問をぶつけてみた。
「お父さんとお兄ちゃんの喧嘩が絶えなくて、お母さんがとってもかわいそう」声が低くしゃがれていて、やっとの思いで口にしたような弱々しさだった。

「たまにお兄ちゃんの飲み会に連れ回されたりするんだよね、それでお父さんが怒っちゃって」それは初耳だった。
「断ることはできないの?」
「お兄ちゃんは止めたい様子なんだけど、お兄ちゃんの先輩が連れてこいってうるさいみたい」

「お酒が飲めないのに?」率直な疑問だった、ナクにしてみればいい迷惑だったろう。
「お兄ちゃん、先輩が怖いから断れないんだって」

人の彼女を連れ回すなんて、その原因がお兄さんにあるとしても気持ちのいいものではなかったし、連れ回す状況から付き合う先輩や友達の言いなりになってしまうお兄さんの弱い立場は好ましくなかった。
抑えようとしていた嫉妬に近い感情が芽生え始め、改めて黒い繋がりを感じ、漠然とした妙な胸騒ぎを覚えた。
ナクの魅力を思うと、とても不安になったが、今の僕の立場では何も行動に移せないのが現状だった。

「守り通してみせるよ」それは唐突に口から滑り出た言葉だった。ナクはきょとんとし、言葉の真意が直ぐには掴めないようだった。
「急にどうしたの?」
「落ち着くまで一緒に住まないか?」大学に行くか専門学校に行くか進路はまだ決めていなかったけれど、高校を卒業したら一人暮らしをするつもりでいた。

「学業に影響が出ない範囲でバイトをするし、ナクが高校を卒業したら家に転がり込めばいい、少し広い部屋を探しておくよ」嘘偽りない言葉だった。
「うん、ありがとう、もしそう出来たらきっと幸せだね」声が弾み、いつもの笑顔に戻っていた。

「家庭やお兄さんとの関係が落ち着くまでという期限付きでね」
「そう出来たら・・・」ナクにとっては冗談に聞こえたのかもしれなかったが、僕は本気だった。


モラトリアムはもう終わりだ。

僕は今、目の前にある壊れてしまいそうなものを必死に守ろうとしているだけなんだ。先のことなんか誰にもわからないんだろう?
長く生きるつもりはない、自分の将来の展望なんて考えたこともない、今やるべきこと、それだけが全てだ。
人はそれを若気の至りと呼ぶのかもしれない。感動や情熱は直ぐに冷めてしまうものであることは知っている。
だけど決して後悔だけはしたくなかったんだ。

「ねぇ、たく、幸せな家族ってなんだろうね?」
「俺は、それを拒否してしまう人間だよ」
「私はそうは思わない、たくは何か大きな勘違いをしているだけだと思う」ナクの言葉が胸に刺さり、言うべきではなかったと後悔した。


暑さが和らぎ、夏はそろそろ終わりに向かい始めていた。この世界に生きる者たちはこれからどこに流されていくのだろう。
悠久の流れに抗い、緩やかなワンドを見つけていつまでもそこに漂っていたい、そんな気まぐれな心を持ち始めていた。

僕のまわりは暖かい思いやりで溢れていたが、知らないところでは不吉な天幕が垂らされ始めているような、そんな相克する違和感もあった。

そして屋上で感じた不道徳的な何かは

禍々しさを伴い、とうとう実体として現れ始めた。