なんだ、あれが僕たちの探している青い鳥なんだ。
僕達はずいぶん遠くまで探しに行ったけど、本当はいつもここにいたんだ。
Maeterlinck
普段はオガワと駅で待ち合わせて学校までバスで通学をしていたが、ナクと付き合いだしてからは二人の学校近くにある土手沿いの分かれ道まで一緒に歩いて通うことのほうが多くなっていた。
いつの間にやらオガワにも彼女ができていたので、朝に駅で一旦落ち合ってからお互いの彼女と会うのが日課になっていた。
彼女を持った朝は慌ただしくなった。
オガワの彼女は背が低く可愛らしい感じの女の子で、誰からも好かれるようなあるがままの優しい性格の持ち主だったから、紹介されてすぐに僕も好きになった。
オガワと彼女は誰が見てもお似合いのカップルだった。
オガワが普段、彼女とどういう会話をしているのかとても興味があって、ダブルデートの話しを持ち掛けてみたもののオガワは頑なに首を縦に振らなかった。
とても残念だったけれど、意外性の期待できる会話を伺う楽しみはとっておくことにした。
ナクは僕の家庭環境にとても興味があるようで、気が付くと会話の中心になっているということが度々あった。
聞かれて返答に詰まる場合もあったが、質問の内容によっては家族のことを改めて見つめ直すいい機会になった。
「たくは、ご両親とは仲良しなの?」幸せな家庭というものが苦手ということを話していたので、ナクは僕の顔色を窺いながら訊いてきた。「うーん、どちらかと言えば仲良しの部類に入るのかな」なんとなくそう答えてみたものの、少し自信が持てなかった。
「どれぐらい?」
「どれぐらいって、何で例えたらいい?」この話題は終わりにしたかったので、話しの矛先を変えようと試みた。
「じやあ、私への愛情との比較でお願い」
「絶対やだ、次」そんな要求がくるとは思わなかったし、照れくさい言葉を臆面もなく言えるナクが少し羨ましかった。
「おねがい」
「家族がいてお腹が空いた時に、小銭があったらパンを買って気兼ねなく一人で食べる。でも、ナクが一緒ならナクが食べている姿でお腹を満たす」
「どうでしょ?」
「さっぱり響かないし、言葉が多過ぎるよ。短く簡潔に節度を求めて下さい」
「響かないのがいいんだよ。歯の浮いた台詞なんて、一年に一回ぐらいでごちそうさま」僕は胸を張り言い放ったつもりだった。
「そんなんじゃ、モテないよ?」
「いいよ、ナクにモテてれば」
「それが、年一回のやつ?」
「ううん、年二回のやつ」そうやって往なしてみせた。歯の浮いた台詞なんて本当に数えるぐらいしか言ったことがなかったんだ。
自宅にナクが遊びに来た時、母親から妙に落ち着かない余所余所しさを感じた。
息子を取られてしまう母親の気持ちが前面に表れているような、そんな少し棘のある態度だった。
息子の立場としては少し複雑だったが、今後ナクを自宅に連れて来られるかどうか、母親の出方をうかがういい機会だと思った。
なにせ言わなければ、お茶すら出さない体だったんだから。
それをナクも感じ取ったのか、いつもとは違い少し強張った表情を見せていた。
家族の愛情というものに敏感だったせいなのかもしれない。
「わたし嫌われているのかな?」
「違うよ、俺が人様の大事な娘さんに何か悪いことをしないかどうか心配しているだけだと思う」
「それはお母さんの今までの経験上ってことだよね?」家出の件があったから強ち間違いではなかったが、それは黙っておくことにした。
目を細めるナク。
「その顔、逆に可愛いよ」
「あ、年一回のやつはまだ使わないでよう」
ソファに座り、後ろから身体を抱いて、髪から漂う香りを嗅ぎながらテレビを観るのが好きだった。
耳に触れるとナクはとてもくすぐったそうな素振りをみせた。
小さなテレビで、映りはすこぶる悪かったけれど、正直なところテレビなんてろくに観ていなかったんだ。
もちろん体を重ねることもあったし、若さにしては僕の無理な要望に対して十分応えてくれたように思う。
淑やかな印象を裏切らない、女性らしい熱を帯びた柔らかな肉体。
恥ずかしい場所を汚し卑しめる行為に及んだ時のナクの扇情的な眼差し。
僕の未熟さから、逆にこちらが蔑まれているような、そんな不思議な感覚を持った。
母親は帰りしなナクのために用意していたお土産を渡し、三十分以上もナクと話し込んでしまった。
家出の話しをされそうになったので急いで目配せをしたがあっさり無視をされ、白日の元に晒されてしまったようだ。
息子は女性の敵だからと言った言葉が耳をかすめ唖然とし、取り繕うかのように笑いかけたナクはわざと視線を外しているようだったので、母親から伝えてくれるのならばそれはそれで手間が省けると思って諦めた。
ナクはいつも通りの笑顔を取り戻し、客人の扱いに長けている我が家の体面はどうにか保たれたようだった。
二人きりになるや否や。
「そこの家出くん!同棲小僧!後なんだっけ、ほうとうむすこ?」ほらきた。どうやら母親にたっぷり知恵を付けられたらしい。「その経験はナクのため」少し嘯いて愛情を込め、ほっぺを優しくつねってあげた。ナクはまんざらでもない様子だった。
そこには陽だまりの中で微睡んでいるような、緩やかに流れる時間と心の安息があった。
若いなりにお互い悩みは尽きなかったが、それに立ち向かうというよりは人間社会から隔絶したいと願い、自分達だけの小さな孤立した世界を形成しようと無意識の内に試みていたのかもしれない。
それは若気の至りと呼べるような分別なく脆くも、だけど僕達にとっては小さな灯火だった。
しだいに季節は夏に向かっていた。時の流れは早かった。
初夏の街路は新緑に包まれ始めていて、墨汁画のような遠い山の稜線と空の明るく淡い藍色との境界線がとても鮮やかで美しかった。
太陽の日差しは金色の眩しさと煌めきを伴い始め、遮るものの少ない場所を巧みに狙い、どこか陽気に降り注いでいた。
最寄駅までの舗装されていない砂利道は埃っぽく、少し歩くと汗ばむような気候だった。
駅までの帰り道、繋いだ手を空に翳してみたんだ。
ナクの手は子供のように細くて小さくて、目を凝らせば血管までもが透き通って見えるかのような白さだった。
真剣になって観察をしている僕を不思議そうに、静かに見つめるナク。
手を繋ぐということが、僕の出来うる慈しみの最大限の行為だった。
手を僕に預けたまま、どこからともなく聞こえる犬の泣き声を真似るナクはとても可愛らしかった。
これから待つであろう、嗜好により感じる愉悦、時には蟠りに嵌り、そして人間の業に慟哭することもあるだろう。
でも、僕はこの先あまり変わらないと思ったんだ。
ナクと出会ったことによる歴然とした変化だった。
いろんなことを惑わし
本質を覆い隠す欺瞞に満ち溢れていたこの世界だったけれど。
ナクが存在することによって成り立つ世界に身を潜め、寄り添い
この先ずうっと一緒に居れたらいいのに。
それだけが望みだった。