ナク *光* | 恣意的なblog.

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僕は歩く。

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地獄とは何か、それはもはや愛せないという苦しみだ。
Dostoevskii





電車は地方の本線で、僕たちはいつも決まった車両の4人掛けのボックス席に座っていた。
始発ではなかったが、下りの電車ということもあり通学の時間帯はいつも空いていたのだ。

ボックス席の中でも座る場所は暗黙の了解のうちに決まっていて、僕が座る席からは長椅子の座席がよく見えた。
途中駅から乗ってくる女の子が、決まって必ず僕が見える長椅子の場所にいつも座っていることに気付いていた。
驚くほど目が合う事はなかったし、僕たちと同じでその座席が彼女の定位置なんだろうと安易に考えていたんだ。

少し陰のある、えも言われぬ大人びた雰囲気を纏っているように感じられた割には、線の細い肢体に高校の制服がよく似合っていた。
彼女は美しかった。

彼女が友達と話している時に、真摯に相槌を打っている様子から芯の強さを感じた次の瞬間には惚けた表情を浮かべ、友達を笑わせたりしていた。
話しの内容はわからなかったけれど、こちらまでつられて可笑しくなった。

目映い朝の光に照らされたあどけない横顔と時折見せる物憂げな仕草から何かの小説で読んだことのある人文主義の美的形式たる表現を思い出した。
笑う時に舌を出して両肩を上げながらおどける仕草を、僕はとても気に入っていたんだ。

もちろん初恋とかそういう初々しい類いのものではなかったし、一目ぼれということもなかったが、時を追うごとに何故か気になる存在になっていた。
いずれにしても、高嶺の花であることに変わりはなかった。
捉えどころのない恋愛に対して、少し覚束無い感覚に陥っていた僕はそう決めつけていたのだろう。

この座席の特典のことを友達には内緒にしていたから、車窓の風景に飽きてしまうと彼女の横顔をたまに盗み見たりしていた。
いや、友達は気が付いていたのかもしれないな。
この年頃はそういうことに敏感なものだ。


前の彼女とは年が変わってすぐに別れていた。
別れた理由はいろいろあったが僕の浮気という誤った事実を正したり、弁解するのが億劫になっていたところであっけなく収束した。
何はともあれ束縛が激し過ぎたんだ。何かに縛られることによって多面性が搗ち合い、頭角を現す"なにか"の妨げは必要なかった。

そして、やっと三年に上がり縦社会の軋轢をほとんど感じなくなった心の余裕からか、少し大人の気分になった。
もっと生を急いで自立し、ソドムとゴモラのように退廃的な人格として形成されたこの身を自ら滅ぼしたかった。
それは目の前にあったから向かう先の道標なんてものは必要なかったんだ。


たまたま違う車両の同じボックス席に座り彼女の姿が見えないのをとても惜しんだが、何故かいるはずのない彼女が座っていてとても驚いた。
辺りを見回し再度確認をしたが、やはりいつもとは違う車両だったので、彼女の存在に少し戸惑ってしまった。

ふいに初めて彼女と目が合った。
彼女は朗らかな笑顔を浮かべ、こちらを窺うようないつものおどけた仕草を見せたが、突然のことだったので何も返せず俯くばかりだった。
相変わらず残念な男だ。

それからしばらくしたある日、駅で彼女に呼び止められた。

「いつも電車で会いますよね?」
「目は合わないけどね」我ながらつまらない返答だった。

オガワが発車待ちのバスにのって窓から身を乗り出し、こちらを見て笑っていた。
どうやら、手振りを見る限り「バスには乗るなよ」、「代返はまかせとけ」と言っているようだ。
言われなくてもそうするつもりなんだから、恥ずかしいマネはやめてくれ。

結局、二人の学校近くにある土手沿いの分かれ道まで歩くことにした。
春の陽気の中、川のせせらぎを聞き、土筆を探しながら二人歩いた。
いつの間にか草木が芽吹き知らない花が咲いていて、漂う空気には土臭さと柔らかな身を緩める香気が含まれていた。

電車の座る席に意図したものがあったのかどうかについては触れなかったし聞く必要もないと思っていたので、他愛のないことを話しながら学校まで歩き、ぎこちない別れの挨拶を交わしてお互いの学校に向かった。

それがきっかけで、たまに彼女と会うようになった。
彼女の家庭がうまくいっていないことについて相談にのってあげた話しの流れがあり、自分のことも少しづつ打ち明けるようになった。
殻に閉じ篭っていた僕にとっては奇跡的なことだったんだ。

人気のない公園のベンチに座り、話しをしていた時だった。

彼女の髪から漂う石鹸のような清浄な香りを嗅いだ時に、身の内から突然汚らわしいものが湧き出してきた。
それは直視できないような悪しき感情であったから、押さえ込もうにもあまりに強大でそれを挫くことができない状況に陥ってしまった。

幸福感が苦手なこと、愛情を持たないこと、親友の死、後輩の死、様々な出来事が沸き上がり、堰を切ったように止め処もなく冷たい哀しい涙として溢れ、彼女の聡すような優しい表情を見たとたん泣き崩れてしまったんだ。

全ての物事が奇異に見え、視界がぼやけ、世の中の腐敗した憎悪の上をのた打ち回っているような苦しみだった。

彼女は僕の泣き濡れた顔を覗き込み、不意にキスをしてくれた。
言葉ではなく女性特有の慎ましい振る舞いと、目には見えない愛撫をもって僕を包み込んでくれたんだ。
心が癒されるような不思議な温かさを感じたのは、初めてのことだった。

「大丈夫、私が証明してあげる」ナクが優しく囁いた。
「なにを?」

「たくが、これから生きる理由を」
「呼び捨てにすんな」

二人で笑い合った時には、もう涙は止んでいた。
彼女は僕の零れた涙を舐める仕草をした。
それがはしたない行為だとは思わなかったし、深みにある欲望は何かをじりじり訴えてきた。
それがぼんやり見えそうで、もう少し手を伸ばせば掴めそうなところにいつもあったが、両手は虚しく空を切るばかりだった。

それから一つ下のナクと、たくさんの時間を共有するようになった。

泣き、笑い、短くも、儚くも、痛みを伴い。

最後には

生きる理由を。