阪神淡路大震災から15年の月日が経とうとしています。

僕の実家は神戸市北区。
長田区などに比べたら被害は少なかったものの、ライフラインは打撃を受けました。

でも僕は直接の被災者ではありません。

すでにひとり暮らしをしながら大阪の大学に通っていて、神戸には住んでいなかったたのと、20歳になって間もなかった僕はたまたま成人式と旅行を兼ねて1/15~2泊3日で、中学・高校の時に親父の転勤で住んでいた新潟を訪れていたのです。

15日・16日と昔の友人との再会を果たした僕は、16日夜に夜行バスに乗り込んで約8時間揺られて大阪駅を目指していました。
やはりと言うか・・・、予想通り、夜行バスでは全く寝付けずに朝を迎えようとしていました。

『家に着いてから泥のように眠ろう・・・』
そう思いながらようやく朝方寝付けたかな、そんな時でした。

場所はまだ京都の舞鶴辺りだったと思います。
ガタガタ、少し揺れたかと言われれば揺れたかもしれません、寝付きたての僕は周りのザワザワと言う声で起きました。

すぐにバスの前方に設置されているTVがつけられ、地震速報で飛び込んできた数字にびっくり。
そこからは渋滞で、朝6時に大阪着だったはずが10時着になるほどバスが動かなくなり、乗客は刻々と伝えられる衝撃的な映像を前にただただ無言でいることしか出来ませんでした。

当時はまだ携帯電話は普及しておらず、バスの中には1台の公衆電話があるのみ、乗客は交代で家族や友人に電話連絡を試みました。

僕も何度も何度も実家・祖母の家に電話をしましたが、一向につながらず、阪神高速が倒れている映像を目にした時は、家族に万が一の事がある事も覚悟しました。

バスは結局4時間遅れで大阪駅に到着。
大阪駅は神戸方面への電車がストップしていた事もあり、人ごみでごった返していて、あたりは漏れ出したガス匂いが充満していました。

それでもひとり暮らしをしていたマンションへは難なく帰ることができ、そこから数時間実家と祖母の家へ何百回も電話をしました。

それでも繋がらす途方にくれていた、そんな時TVの報道で、『一般電話からの通話より公衆電話からの通話を優先している』と言う情報を知り、近くのコンビニへと急ぎ、また何十回も電話・電話・電話・・・

まるで戦争で空襲を受けた紛争地帯の街を写しているような映像ばかりが流れていたので、もう家族はダメなんじゃないかと本気で思っていましたが、100回目くらいの電話で・・・

『もしもし』とおかんの声。

僕『大丈夫?何百回も電話してんで!みんな無事?』
母『今みんなで近所の小学校に避難してんねん、電気もガスも水道も全部あかんから』
僕『そうなんや、みんな無事?』
母『うちは大丈夫!おばあちゃんちの屋根の瓦が全部落ちた!こないだお金かけて新しく換えたとこやけど、しょうが無いわ』
僕『うちは?なんも無かった?』
母『ちょうど昨日、フローリングにワックスかけてたから、箪笥も食器棚も全部倒れずに1mくらい滑ってズレてたわ!助かったー 笑。いや、ほんまに笑い事と違うねん!今色々食料や衣類持ち出してるから急いでんねん、うちはみんな大丈夫やから安心して!ほな切るよ。』

ほっ、安心した。
ほんま無事でよかった。
しかも、箪笥も食器棚も倒れずに1mズレてたって言う小噺付き。

僕は何十年ぶりかに家族と面会を果たした人のように嬉しかったのを覚えています。

でも帰宅してから、そんな嬉しい気持ちもどこかへ行ってしまいました。
飛び込んでくる衝撃の映像、伝えられる被害状況、負傷者・死者の数・・・、時間を追う毎に、本当にエラい事が起こっているという事を思い知らされました。

親戚や友人、世話になった人・・・、みんな無事なのかどうかそればかりが気になりましたが、歩きなれた商店街が燃えていたり、通っていた予備校の横のビルが前の4車線の道路に倒れて横たわっていたり、行きつけのお店のガラスが全部割れている映像が飛び込んできて・・・

数日後、僕は食料を詰めたリュックを背負い、ちゃんとは記憶してませんが、電車が分断されている所は代替えバスを乗り継いだり歩いたり遠回りしながら、実家へ行きました。
途中、三宮駅周辺を歩くことになったのですが、それはそれは酷い有り様でした。

それでも、すでに力強く立ち上がろうとしており、残っていた食材で自主的に炊き出しをしている飲食店、無料で牛丼を配布する牛丼屋を目にしました。

『にいちゃん、これ飲んで行きぃー!』

豚汁を差し出された僕は…
『僕、被災者違いますよ、今から実家に水と食料届けるんです。』
そう答えたのに、そのおっちゃんは…
『かまへん、かまへん、助け合いや!あったまるで、ほれ、飲んで行き。はい、そこのにいちゃんもどや?』

涙が出ました。
人は暖かいです。


あれから15年…
震災の時に燃えた、予備校の時行きつけだったアンティーク調の喫茶店『ポロドッグ』は新しく場所を移し新たに営業、その他ありとあらゆる建物やお店が力強く立ち上がりましたが、予備校の時にバイトしていた喫茶店『フルムーン』は一度再オープンしましたが、その後すぐに閉店、聞くところによるととても悲しいご事情があったそうで・・・、今はその場所は安売りの眼鏡屋になっています。



離れた東京に暮らしていて、たまに帰郷した時に、新たなお店が出来ていたり昔あったお店がなくなっていたり、そう言うのを当たり前の新陳代謝だと思っていましたが、昔のバイト先『フルムーン』の話を思い出すと、一見復興をとげたように見える神戸ですが、間違いなくあの震災は街を変え、人の人生を大きく変えたのだと、感じずにはいられません。


あれが東京で起こったら・・・
みんなの街で起こったら・・・


今日は土曜プレミアム『神戸新聞の7日間』を観ながら、少しだけあの日について、人生について、自然について考えてみたいと思います。