梅雨空のもと、久しぶりに泡盛を取りだす。昨年、沖縄で買い求めたものだ。泡盛を飲むときに使うことに決めているグラスはふたつ。ひとつは沖縄を代表する職人が作った渋い色合いと美しい形の吹きガラス。ひと目見て気に入って買って来たもの。そしてもうひとつはもらいもの、である。
沖縄の海を思わせる薄い青色に吹きガラス独特の細かい泡が含まれている。シンプルな形で、おそらく銘のあるものではないのだろうが、よく見ると繊細な細工は間違いなく地元産である。もらったのは10年以上前、すでに亡くなった患者さんからだ。
彼女は当時、僕の患者であり、病気は癌、しかも末期の癌であった。彼女自身の目にも、もう、いつまでも続く未来は映っていなかったはずだ。5月、まだ見たことのない沖縄の海が見たいと言った。行って来たら、と僕はものわかりよく言った。どちらにしても大きな違いはない、というのが主治医としての客観的な結論だった。彼女は本当に喜んだ。良かった、ありがとうございます、と。
1週間の旅行はもちろん、彼女の最後の旅であり、こちらが予想したよりきつかったようだった。やりたかったことすべてはできなかったけれど、と彼女は言った。でも楽しかった。
おみやげをもらった。吹きガラスのグラスと泡盛の古酒と、小さな群青色のガラスの置物。「ありがとう」と刻まれていた。グラスは使わず、引き出しにしまい込んだ。泡盛も飲めなかった。置物は机に飾って眺めた。2ヶ月もたたずに彼女は逝った。
何年も経ってふとしたときに彼女のことを思い出した。引き出しにしまっていたグラスを取り出して、古酒の栓を開け注いだ。口に含んで彼女が最後に見た沖縄の海を思った。
それ以来、グラスは自分自身が気にいって買ったものと交代で泡盛を飲むときに欠かせないものになった。少し陽気な気分の時は自分で選んだグラスを、沈んだ気分の時は明るい海の色を。優しく、しかし力強く背中を押してくれる気がするからだ。多くのひとを見送っても満足する、という死はない。医学にとって死は敗北そのものだが、そのような高慢な意味合いを除いたとしても、やはり肯定的に受け取れる死など凡人には存在しない。それでも月日を重ねるとそっと寄り添ってくれるような死もある。自分の幻想に過ぎないとはわかっていても。そして少しずつ、しかし確実にその数は増えて行く。待ってるわね、そう言ってくれたひともいた。向こうでは同窓会だろうか、おそらく寂しくはないだろう。