現在の世の中を「生きやすい」と思う人。
「生きづらい」と思う人。

その人それぞれの視点があるため『答え』は様々だと思います。

人間社会は新型コロナウイルスの影響もあり、とても騒がしい状態です。
ウイルス感染の流行は収まっていませんし、企業の倒産も増えています。
特に飲食店関係の人は「世間的に営業したくてもさせてもらえない」という状態になっており、厳しい状況に置かれていると思います。
そして先の流れが見えないこともあり、様々な不安が増幅している人が多いと思います。

つまり多くの人はネガティブな状態になりやすいのではないかと思います。

ちなみにスピリチュアル系の人たちは『新世界』や、『新しい時代の到来』のことを伝えていると思います。
人間社会の状況とは裏腹に「生きやすくなってきた」と感じている人も多いのではないかと思います。
また、感じやすい人であれば「エネルギー的に軽くなってきた」などという声も増えているような気がします。

つまりスピリチュアル系ではポジティブな状態になっている人が増えていると感じます。

おそらくですが、現在のスピリチュアル系の指導者は「ネガティブではなく、ポジティブな世界に意識を合わせる」などと伝えていることが多いと思います。

簡単にいえば『世界のパラレル移動』のことを伝えているのだと思います。
パラレルの移動とは、世界はひとつではなく、『無数の世界』が同時に存在しており、自分の意思で『自分の活動する世界』を選択できるという概念です。

たとえるならば、テレビの『チャンネル』を変えれば、「自分が見たい番組(選んだ周波数の世界)に移動できる」ということを伝えていると思います。
つまり『古い世界(古い地球)』と『新しい世界(新しい地球)』が同時にあるとすれば、自分がどちらの世界を希望するのかが重要で、「新しい世界(新しい地球)を希望するならば、新しい世界(新しい地球)に移行できる」と信じていると思います。

また、自分が軽くなるために「不要なものを手放すこと」を伝えている人も多いのではないかと思います。

伝えられていることは『一理』あります。

僕自身、過去に「おそらく今後はこのような流れになる」という状態で、アセンションについての記事を書いたことがあります。

『アセンションプリーズ』という記事ですが、現在のスピリチュアル系で伝えられている内容と『ほぼ同じ』だと思います。

ですから、現在のスピリチュアル系の指導者が伝えている内容はとても理解できるのですが、ある時から「何か違う気がする」という違和感がありました。

単純にいいますと「実は何か騙されているのではないだろうか?」という違和感です。

おそらくですが、スピリチュアル系には「私は新しい世界に移動した」と思っている人も多いと思います。
ですから人間社会が全体的にネガティブになっていても、「私はポジティブな世界にいるので大丈夫」という状態ではないかと思います。

そして「新しくなったこの世界で、私は私らしく自分の願望を実現させていく」と思っているのではないかと思います。

とても素晴らしいことだと思います。
また、パラレルワールドで考えれば、同じ地球上だとしても『住んでいる世界』が違うので、「ネガティブな世界にあえて干渉する必要がない」ということも理解できます。

しかしぜひ考えていただきたいのですが「あなたは良いかもしれないけど、いまの地球はどうするの?」ということです。

「私は新しい地球に移行したから、古い地球のことはもはや関係ありません」と思っているかもしれません。

「ポジティブな人とネガティブな人に分かれて世界が平和になりました」という単純な発想であれば、『ハッピーエンド』の展開に向かっていると思います。

しかし実際のところ『地球上の混沌な状況』は何ひとつ解決していません。

現在のスピリチュアル系では「ネガティブや、混沌な状況にあえて目を向けてはいけません」というような風潮になっていると思います。
しかし、その混沌となった地球上に「あなたはまだ肉体を持って存在している」ということです。

もし肉体が無い状態であれば「この世界で私は自由になった」と喜べるかもしれません。
ただし、『肉体』がある以上、残念ながらこの地球上で「まだ人間をやる必要がある」わけです。

つまり「目を背けるのはまだ早い」と思います。

そもそも人間は地球であり、地上を任されているような状態だと思います。
「人間が地球を任されている」というのは傲慢な意見かもしれません。
しかし人間の進む方向性によって地球であり、地上は大きく変化すると思います。

自分らしく生きることは大切です。
むしろ自分らしく活動できる世界を求めるべきではないかと思いますが、自分が活動するための『場所』の存在を忘れてはいけません。

自由に楽しく踊りたくても、『踊り場』そのものがなくなれば、必然的に「自由に踊れなくなる」ということです。

スピリチュアル系の人は精神性を大切にしていると思いますし、おそらく目覚めている人も増えているはずです。
しかしせっかく目覚めたとしても、「世界は変わったのでもう何もしなくて大丈夫」などの『誰か』の言葉を信じることによって、気持ちが『油断』させられる危険性があります。

おそらくまだ終わりではありませんし、本当に大切なのは「これから」だと思います。

目指すべきゴールはまだ先なのに「ここがゴールですよ」という甘い言葉に騙されないように念のためご注意ください。

ただし、「ネガティブな状態に意識を向けましょう」と伝えようとしているわけではありません。
「せっかくであればもっと世界を良くしていきませんか?」と伝えたいわけです。

話は変わりますが、僕は日本各地の神社を巡ったりしています。
ただし、昔の僕は「神様は人間が信仰の対象にするために作った偶像にすぎず、神様なんてこの世に存在しない」と思っていました。

つまり神様の存在を全く信じていなかったわけですから、完全に『不信仰』な状態から活動を開始しています。

だからこそ「神とはなんぞや?」という疑問を抱えた状態での活動でした。

また、神社を巡るようになる前は『お祈り』をしたこともなかったので、祝詞なども全く知りませんでした。
そのため「祈りとはなんぞや?」と苦悩しながらの活動でした。

旅中に様々な気づきもあり、現在は日本の神々様、そして『日本の自然(全ての存在)』に大変感謝しています。
そしてひとつわかったことがあります。

「多くの人は神様を本気で求めてはいない」ということです。

一部には熱心に信仰されている人もいると思いますし、神様を大切にされている人も多いと思います。

ただし、多くの人は『自分へのご利益』が目的にすぎず、「ご利益さえあれば何の神様でも問題ない」という状態だと思います。
全国でも『金運関係』の神社は特に人気が高いと感じますが、神様ではなく『金運向上』が目的だと思います。

つまり「神様が目的ではなく、ご利益が目的」ということです。

神社に足を運ぶ人は様々な目的や理由があるとも思います。
たとえば浄化が目的、観光が目的、御朱印が目的、自分と向き合うのが目的など、人それぞれで様々な目的があると思いますが、ご利益が目的でも決してダメではありません。

しかしご利益目的の場合は「ご利益が無い」と思った瞬間に「興味が失せる」のではないかと思います。

「願いを叶えてくれないのであれば、神様は役に立たなかった」と判断する可能性が高く、「そこに神様への感謝はあるのですか?」となると、おそらく「神様への感謝はない」のではないかと思います。

何を伝えたいのかといいますと「ご利益さえあれば何でもいい」と思う状態であれば、「ご利益主義な状態からいつまでも抜け出せない」ということです。

たとえば『悪魔』から「あなたの願いを叶えてあげる」と声をかけられたら喜んで従うと思います。
逆にいえば、「自分の願いを叶えてくれない神様であれば私にとって不要」なのかもしれません。
つまり「私(自分)の願いさえ叶えてもらえるのであれば神様だろうが悪魔だろうが何でもいい」という状態なのだと思います。

『愛』というのは目に見えないものです。
はっきりいいますと、『わかりやすいご利益』などは全くありません。

しかし愛は常に『在る』わけです。

ご利益だけを重視する人は「愛に気づくことができない」かもしれません。
また、神様のことを『ご利益を与えてくれる存在』と信じているならば、「実は神様を求めているわけではない」と気づかないといけないかもしれません。

ご利益を求めて、どれだけ熱心に神様にお祈りしたとしても、それは『神様への信仰心』ではないと思います。
ただし、熱心にご利益をお願いすれば、願いを叶えてくれる『別の存在』が寄ってきてくれることはあるのかもしれません。

ちなみに日本では信者が少ないと思いますが、全世界だと『キリスト教』が最大の宗教だと思います。
世界における信者数は23億人を超えているらしいので、地球上ではキリスト教を信仰している人が大半だと思います。

僕自身はキリスト教の信者ではありません。
しかし個人的にキリスト教で伝えていることは学ぶべきことも多いと感じますし、素晴らしいことを伝えていると思います。
聖書を詳しく読んでいるわけではありませんが、少なからず学ばせていただいています。

現在、キリスト教の信者の皆様は『キリストの復活』や、『主の再臨』を待っているのではないかと思います。

世界の終末には救世主とされるイエス様が復活して、イエス様を救い主と信じる人は、神の国が到来したら、新しい命がもらえると信じているのではないかと思います。
また、キリストと共に天からの軍勢が地上に舞い降りて、サタンを滅ぼしてくれるというような内容も伝えられていると思います。

しかし「その時はまだ訪れていない」らしく、キリスト教の信者は『その時』を切望していると思われます。

ちなみに10年以上前のスピリチュアル系では、キリスト教で伝えられている内容が『アセンションの内容』と思われていた時もあると思います。
そのため「天の軍勢とは宇宙から迎えにくる宇宙存在のことかもしれない」と思われていたこともあると思います。

一時期はアセンションの話が流行していましたが、特に大きな出来事は起こらず『アセンションするする詐欺』に飽きた人たちは、アセンションの話題をすることがほとんどなくなりました。
その結果、現在のスピリチュアル系では「新しい世界にパラレル移動する」というような内容になっているのではないかと思います。

聖書は読み手の『解釈』によって、伝えられている意味が全く変わります。

キリスト教の信者には『信者目線での解釈』があるはずです。
聖書の理解を深めるため、信者同士での勉強会などもあるようですし、熱心な信者が凄く多いのだと思います。

しかしキリスト教の信者ではない僕が解釈すると、同じ聖書を読んでいたとしても、『内容の意味』が全く変わります。
むしろ聖書に伝えられている内容は「その通り」と感じることが多く、素晴らしい教えだと感じます。

ですから「キリスト教や、聖書を否定するつもりは全くない」ということをご理解いただければと思います。

キリスト教の信者の多くは『主の再臨』や『天の軍勢』は『天』から訪れると信じていると思います。
また、「主の日は盗人が夜くるように来る」などと伝えられているようです。

僕が思うに、おそらくいつまで待っても「天からは訪れない」と思います。
しかし、『本人』がその気になれば、いつでも可能だと思います。

『天』という言葉をそのまま受け取ると、『空』、もしくは空高くにある『宇宙空間』をイメージするのではないかと思います。
たとえば「天を見上げてください」と伝えると、上空の空に目を向けると思います。


「主よ!」


しかし『天』というのはもうひとつ存在します。

『自分自身の内側』です。

人間の外側に『世界』は広がっていますが、人間の内側にも『世界』は広がっているからです。

ですから「ある日突然、見上げた空から天の軍勢がやってくる」のではなく、天の軍勢は「自分の内側からやってくる」ということです。

ちなみに過去に『だらだらと曼荼羅を語る』という記事を書いています。
自分でいうのもなんですが、参考になると思いますのでぜひ読んでいただきたいです。


『金剛界曼荼羅』

『胎蔵界曼荼羅(胎蔵曼荼羅)』

『金剛界曼荼羅』と『胎蔵界曼荼羅』の2種類によって『両界曼荼羅』となります。
両界曼荼羅は『外側』と『内側』にある宇宙を視覚的に表現されているわけですが、曼荼羅の中心は『大日如来』様となっています。

金剛界と胎蔵界は根源的には『ひとつ(一体)』ということですが、中心に存在するのは『自分』です。
つまり自分の『在り方』で、「自分の世界(宇宙)を創造できる」ということですが、中心そのものが『愛の存在』となれば、『愛の世界』を創造することが可能となります。

長くなるので『創造』の詳しい話に関しては別の機会にします。

ちなみに密教の曼荼羅では中心が大日如来様になっていますが、キリスト教であれば『主の愛』になると思います。

つまり、もし主の再臨を望むのであれば、自分自身の『中心』に、『主の愛』を招き入れることで、人間の肉体に『主が再臨(受肉)』して、『肉体を持った人間』として地上で活動できるようになるというわけです。
そして主なる愛と共に活動する『人間』が、地上で活動することにより、地上が『神の国(愛の国)』となっていくのだと思います。

たとえばクリスチャンは『十字架』を首にかけていますが、十字架を身に着けるだけであればファッションにすぎません。
自分の胸(内側)の中心に『主の愛』を招き入れ、共に歩むことで、人間は「主と共に歩む」ことができるわけです。

キリスト教の信者の皆様は、いつかある時に『キリストという名の神様』が突然空中からやってきて、地上の世界を『一変』してくれると信じているのかもしれません。

表現を変えれば、『どこかにいる神様』が天から現れる時を信じて待ってさえいれば、「ある日突然神様が現れて『私』と『世界』を救ってくれる」という『ご都合主義』なのだと思います。

それは『自分を助けてくれるご利益』を求めて、必死に神様に祈っているだけのような状態で、はっきりいえば「救いを本当に求めているわけではない」と感じるわけです。


聖書という『文学』を大切にしているだけでは、無意味であり、肝心なことは「あなた自身は一体どうしたいのか?」ということです。

地上をより良い世界にしたいのであれば、地上を任された『人間』が人間たちの手で自ら変えていかなくてはいけません。

神の愛を世界(地上)に広めたいのであれば、『自分自身が神の愛』となって地上で活動すればいいだけです。

つまり「どこかの誰かや神様が世界を良くしてくれる」と思っているのであれば、「それは大きな間違い」ということです。

 

むしろ「あなた自身が動かなくて一体どうするの?」ということに気づかなくてはいけません。
あなた自身が『教会』になって、地上で愛を伝え、広めていきなさいということです。


ちなみに日本風に表現するのでれば、「あなた自身が『神の宮(神社)』になりましょう」になると思います。

余談ですが、日本には『出口王仁三郎』様という凄い能力者がいました。
様々な予言を残していますので、予知能力者としても凄い存在だと思います。
残念ながらすでに亡くなっておられますが、新宗教『大本』の教祖として活躍されておられました。

出口様は『聖師』と呼ばれ、カリスマ的な存在として、多くの信者が出口様の元に集まってきたようです。
実際のところ現在の日本の宗教の開祖となる人たちは、大本出身の人が多く、霊能力や、宗教に興味がある人であれば、一度ぐらいは出口様の名前を耳にしたことがあると思います。


もし出口王仁三郎様が生きていればですが、僕も大本の信者になっていたと思います。
宗教には興味がありませんが、出口様には強く惹かれるものを感じたからです。
ちなみに大本の信者にはなっていませんが、京都府綾部市にある大本の本拠地には何度か参拝させていただいています。

出口様は『霊界物語』という物語を書物として残されています。
そして霊界物語には『信天翁(あほうどり)』という歌が掲載されているようです。
内容の真意は出口様しかわかりませんが「(出口王仁三郎様が)自分はニセモノ(偽の救世主)だ」と自白している歌ともいわれています。

ちなみに『あほうどり(信天翁)』は鳥の名前です。
名前の由来は、近くに行っても全く逃げていかず、簡単に捕まえることができたことから、「あほうどり」や「ばかどり」などと呼ばれていたことに由来するそうです。
また、「天(太陽)にまかせて魚がやってくるのをずっと信じて待っている翁(老人)のようだった」ことから、漢名の『信天翁』になったようです。
もしかしたら出口様は「いつの日か天から主が再臨する」と信じ続けているキリスト教の信者のことを皮肉っていたのかもしれません。

冒頭部分に戻りますが、スピリチュアル系の人は「新しい世界に移行した」と思っているかもしれません。
パラレルの移動で考えれば『一理』あると思います。
しかし現在の地上は『混沌』とした状態となっています。

地上から目を背けてるのはまだ早く、むしろ本当にやるべきことが残っていることに気づいて欲しいと思います。

「新しい世界になったので、これから世界はどんどん良くなります」と伝えている人も多いと思いますが、はっきりいっておきます。


「それは一体誰がやるの?」


下記は最近のInstagramの内容です。

『1月18日』
2020年の4月中旬に人生初の陶芸体験を天草でしてきました。
その名も『やきもの教室』です。

そのまんま。

むしろ『やきいも教室』だと困りますが。

あれから陶芸体験の話を全くしていませんでしたが、新型コロナの影響によって陶芸サークルの活動がずっとストップしていたからです。
皮肉なことに陶芸体験を参加中に、陶芸サークルの活動の停止が急遽決定されました。

ショックだよ!

そのため、粘土で器の形を作った段階で作業が中断していたわけですが、2021年の1月16日に「完成したので引き取りにきてください」とご連絡をいただきました。

表面の加工や、焼きの作業は全て講師の人がやってくれたわけですが、人生初の陶芸作品の完成です。
初めてのこともあり、形がグニャグニャで不細工ですが、不細工だからこそ味があるので面白いと感じます。

作品名
「コップ?」

疑問形になっているじゃねーか!


コップ?

新型コロナの影響しだいですが、月に数回は『やきもの教室』が予定されているようですから、機会をみてたまに参加させていただこうと思います。

ちなみにイメージ的には『湯呑み茶碗(ゆのみじゃわん)』を作りたいと思っています。
市販の茶碗は基本的に綺麗な形状ばかりなので、むしろなるべく不細工な形にしたいです。

先日のことですが、天草で開催されていた陶磁器展を涼華さんと一緒に見に行きました。
新型コロナの影響で人数制限もあり、2019年と比べると会場はガラガラな状態でした。

展示されていたのは完成された綺麗な作品ばかりで『商品』としては素晴らしいです。
しかし似たようなデザインばかりですし、全部一緒のように見えて「何かつまらない」と感じました。

商品としてはデザインが綺麗な方が正解だと思いますし、使いやすいと思います。
しかし、綺麗な作品だらけだと、逆に不細工が見たくなるのが不思議なものです。

ただし、作品製作などでは『基本』が大切だと思います。
基本をしっかり学んだあとで、様々なことを思考し、そこから『独自性』が出てくるのだと思います。
難しい言葉では『守破離』などといわれていると思います。

しかし全くの素人が「これが私のオリジナル」という状態で活動すると『個性』は個性でも、「ただのメチャクチャになる可能性が高い」です。
メチャクチャもひとつの個性だと思いますが、客観的には「ただの下手くそ」と判断される可能性が高いと思います。

どちらも『道』のため、実際のところ正解はありません。
ただし、近道を考えると、基本から地道に学んだ方が、実は上達が早い気がします。
なぜならば上達しようとすると『基本』は必ず通る道ともいえるからです。

たとえば『いびつな状態』から、無駄をそぎ落としていくと、徐々に『シンプル』になっていくわけですが、シンプルになった状態が『基本(ベース)』の部分です。
ですから『我流』で開始した場合、試行錯誤すればするほど、無駄をそぎ落とし、むしろ徐々に『基本』に近づいていく可能性が高いです。

天性のセンスがあれば別ですが、多くの人は基本から学んだ方が『変なクセ』もつかず、上達が早い気がします。

そして『道』ですから、必ずたどり着く場所があります。
芸術に限らず、全ての道は『一点』に近づく道だと思います。

その一点とは『中心』です。

中心に近づけば近づくほど、『自分』が何かわかってくると思います。

そして「この世界で私は何を表現したいのか」という『純粋な思い』が少しずつ見えてくると思います。
さらに深い部分までいくと『愛』であり、『愛の表現』にたどり着くかもしれません。

その思いを『物質』として表現したものが『芸術作品』となるわけです。
つまり、人間は誰でも『何らかのアーティスト(表現者)』なのだと思います。

どのジャンルを選ぶかは『人それぞれで自由』です。
そのため道の『入口』はとてつもなく広いです。

しかしどのジャンルを選んでも、極めれば極めるほど必ず『中心』に向かう『道』になっていると思います。
そして中心に向かう過程に、経験と学びがあるのだと思います。

ちなみに僕は陶芸を極めるつもりは全くないので、趣味や楽しみとして活動できればと思っています。

不細工しか作れない状態で「不細工な作品を作りたい」と願うのは、どういうことかいいますと「ただの逃げ発言」です。
とても困った問題です。


『1月22日』
天草地方にある『崎津教会(崎津天主堂)』です。



涼華さんと崎津集落にあるイタリアンレストランでランチを食べてきました。
涼華さんのご両親から『プレミアム付食事券』をプレゼントしていただいたからこそですが、ご両親には大変お世話になっております。

正午にお店に到着しましたが、ランチタイムなのに僕と涼華さんだけの貸切状態でした。
ただし、料理の味はとても美味しかったですし、新型コロナの影響が無ければ人気のお店だと思います。

イタリアンレストランではパスタと、ピザと、デザートを食べてきました。
デザートは『パンナコッタ』でした。

僕は記憶力がそれなりに良い方だと思いますが、食べ物に関しては記憶がすぐに消えてしまいます。
正直なところ食べ物にあまり興味がないからこそですが、過去に食べたことがあるのに「はじめて食べた!」と思うことが多いです。

今回のパンナコッタもですが、涼華さんに「パンナコッタって何?僕は初めて食べるけど」と伝えました。

すると涼華さんから「パンナコッタは一緒にこの前食べたの覚えてないの?『パンナコッタなんてこった』と言いながら食べてたよ」と言われました。

なんてこった。


つまらないのはパンナコッタのせいです。

 

ちなみに現在はどれだけ美味しい料理を提供していたとしても、緊急事態宣言などの影響で潰れるお店が多いと思います。

プラスにとらえると、日本中で飲食店の営業が減れば、食材の廃棄や食材の無駄が減ると思います。
なぜならば飲食店にしてみればあまりお客様が来なくても、『食材の入荷』は常にしていたと思いますし、使用しなかった食材は廃棄処分も多かったと思うからです。

世界各地で食糧難などが騒がれる中で、日本は「毎日何気なく食材を無駄にしていた」と思います。

その点では、「強制的に食材の廃棄処分が減る機会になった」と思いますし、逆に考えると「遅かれ早かれ飲食店関係者は大変なことになる可能性があった」と思います。
なぜならば食糧難が本格的に到来した場合、食材が入荷できなくなり、結局営業ができなくなるからです。

飲食店関係者にしてみれば『死活問題』なので現在の日本政府のやり方に文句は尽きないと思いますが、新型コロナや日本政府に関係なく「いつかその時が訪れていた」のかもしれません。

ただし、飲食店が潰れることを望んでいるわけではありません。
飲食店関係で活躍している友人もいますし、新型コロナの騒ぎが収束して、良い方向に向かうことを願っています。

余談ですが、ある時に僕は「世界を少しでも良くしたい」と思いました。
ただし、当時は何の力もありませんでしたし「それはどうやって?」が全くわかりませんでした。

その後『祈りの旅』という日本各地の神社や場所を巡るご縁をいただきました。

現在も日本各地を巡ることはありますが、趣味としての活動です。
神社はとても好きですし、日本の神々様には大変感謝しております。

しかし、ある時から「僕は神社などを巡ることが本当の役目ではない」とわかっていました。

そして、やっとわかったんですよ。
世界を良くするための方法が。

この方法に気づくために祈りの旅や、日本各地の神社などを巡る必要があったのだと思います。
それはキリスト教(ユダヤ教)を含め、様々な宗教が伝えていることの『答え』だと思います。

たとえばキリスト教では『キリストの再臨』を伝えられており、『携挙』も伝えられています。

『携挙(けいきょ)』
プロテスタントにおけるキリスト教終末論で、未来の主イエス・キリストの再臨において起こると信じられていることである。
まず神のすべての聖徒の霊が、復活の体を与えられ、霊と体が結び合わされ、最初のよみがえりを経験し、主と会う。
次に地上にあるすべての真のクリスチャンが空中で主と会い、不死の体を与えられ、体のよみがえりを経験する。

キリスト教徒は「主の再臨が遅れている」と信じているのではないかと思います。
しかし「このままではいつまで待っていても来ない」です。

僕はキリスト教徒ではありませんし、基本的には無宗教です。
むしろキリスト教の信者になってしまうと「逆に再臨の意味がわからなくなる」と思います。

実はこの方法を説明するためにブログやInstagramなどでいろいろ書いているのですが、おそらく『真意』はまだ伝わっていないと思います。
もしかしたら10年後などに意味がわかってくるかもしれませんが、まずは『種まき』からです。

現在新型コロナウイルスが流行していますが、発生源はわかりません。
人間がウイルスに関与していた場合、実験的に数人同時に感染させられた可能性もありますが、1人の感染者から伝染したと思います。

やっと見つけた『世界を良くする方法』をたとえるならば『世界を良くするためのウイルス』を入手したような状態です。
冗談抜きで人類と世界に『大変革』を起こす方法なので、この方法を伝えるまではとりあえず死ねません。
涼華さんには内訳を伝えていますが、人類で現在知っているのは僕と涼華さんの二人だけ…のはずです。

いまならお一人様につき5000円という大特価でお伝えします。

商売をするな!

神々が数千年前から用意していた『秘策』で世界を変えましょう。


『1月23日』
今日は2021年1月23日ですが、大きな気づきがあったので記念日にしようと思います。
ちなみに『123』は『ひふみ』とも読めます。

一部の人はご存じかもしれませんが『一二三神示(ひふみしんじ)』という神示があります。
『岡本天明』様の自動書記によって記述された神示ですが『日月神示(ひつきしんじ)』などとも呼ばれます。

日月神示が降ろされた場所は千葉県にある『麻賀多神社』とされています。
マニアックな神社ですが、「日月神示が降ろされた神社」ということで、一部の人にはとても人気のある神社だと思います。
正式には麻賀多神社の境内にある『天日津久神社』が日月神示の降ろされた場所のようです。

ちなみに神道では『ひふみ祝詞』という祝詞も存在します。

ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そをたはめくか
うおえ にさりへて のますあせゑほれけ 

個人的に『ひふみ(123)』という日に気づきがあったのは意味がありそうなので、嬉しく思います。

話は変わりますが、現在の人間社会は基本的に『法律』でまとめられていることがほとんどだと思います。
日本は『法治国家』ですし、『法治主義』などと呼ばれます。
ちなみに宗教では神との契約、規則や戒律、形式を重視する人を『律法主義』といわれるようです。

人間が作った法律には必ず『穴』があります。

人間は知恵を持っていますので、知恵で穴を見つけます。
そのため、新しい穴が見つかるたびに、穴を塞ぐためにさらなる新しい法律が作られます。

穴を塞ぎ続けるということは、人間が人間の手によって、人間の自由な活動を閉じ込めることに必死になるだけです。
つまり人間の自滅行為です。

また、法律を『正義』として信じる人は、法律の穴を抜けようとする人を容赦なく裁こうとします。

「法律を破れ」とはいいませんが、人間が人間を裁き合う世の中は狂っています。

現在は新型コロナの影響で、様々な規則や、法律が増え続けています。

昨日まで許されていたことが、今日からは許されない。
しかし誰にも見つからなければ逃れることができる。

緊急事態宣言が良い例ですが、守る人と、守らない人が存在し、現在の日本はブレーキとアクセルを同時に踏んでいるような状態です。

とても愚かな状態だと思います。

むしろ人間の行う政治は「権力によって国民を統治しようとする」からこそ、必ずこの展開になると思います。

支配する側と、支配される側によってバランスが保たれていても、一度バランスが崩壊すると支配される側の反乱が起こります。

そのため破壊、再生、破壊、再生の繰り返しの歴史から人間はいつまでも抜け出せません。

それを打破するのが『愛』の統治であり、全世界を統一させていくことができます。

そもそも『愛』は宗教ではないため信者を増やす必要が全くありません。
むしろ宗教という壁を無くすことが大切だと思います。

また、『愛』は支配ではありません。
ピラミッドのような階級の構造は不要です。

ちなみに陰謀論などでは『世界統一政府』の誕生を懸念されています。
人間が支配者になると世界統一政府は凄く危険な思想です。

しかし新しい世界は愛を『主体』にして完成される世界です。
愛での世界統一こそ『真の新世界秩序(ニュー・ワールド・オーダー)』です。

「私は在りて在るものである」

『愛』は普遍であり、全ての根源には『愛』が存在します。

数千年前から準備されていた壮大な計画の花を咲かせるのは『あなた』です。



愛を広めるのが嫌であれば、それも自由です。
しかし愛を広めれば世界が少しずつ良くなっていくのであれば、とても嬉しいことだと思います。

たとえば『花』を愛する人は、道端に咲いている『花』に気づくことができます。
咲いていることに気づいてもらえた『花』は喜びます。

つまり、愛を愛する人は『愛の花』を咲かせている人に自然と気づくことができます。

花を愛する人は、花に感動します。
存在に気づいてもらえた花は喜びます。

つまり『愛の花』によってお互いの想いが繋がります。

世界各地に『様々な個性』という『様々な愛の花』が咲き誇る。
愛に気づき、愛に触れた人は、愛で繋がれていく。

もしルールがあるとすれば、活動は「愛を主体に」です。
愛を主体にすれば、自然と他者への思いやりが芽生えるはずです。
それが『愛の法』となり、法律は存在せず、愛の元に自由です。

愛を愛する人たちは、愛によって自然と愛の元に集まってきます。
それが愛によって統一された『愛の世界』であり、愛の花を咲かせるたびに『愛』が拡大していきます。

これが『愛の法則』です。

人種の壁、国の壁、宗教の壁は不要です。
愛の元に『すべてはひとつ』だからです。

ただし、愛から離れるのもその人の『自由』です。

これが僕が伝えようとしていることの概要です。

現在は物質主義の人が増え、物質重視の世界になっています。
世界を良くする方法は、物質主義の状態を保ちながら、世界を変えていくわけですが「毒を以て毒を制す」という方法です。

この方法については、近いうちに紹介できればと思います。