こんにちは~
NHKの大河ドラマ、「鎌倉殿の13人」観てますか~
私は小栗旬さんが好きですし、面白いと思うので観ています~
ゴールデンウイーク中の鎌倉、ひっそりとしている所に行ってみますね~(笑)
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で北条氏が鎌倉幕府の中でいかにして力を付けていったかを
描いていますが、ではその末裔はどうであったのか~。
その北条氏が一族郎党で最期を迎えた場所は、鎌倉駅から歩いて行かれる場所にあります。
東勝寺跡という所です。
今回はそちらに行きますね。
先ずは八幡様の東に位置する宝戒寺です。
私は何故か子供の頃からこちらのお寺が気になり、今でも心安らぐお寺さんの一つです。
何故かって、バスから入口が見えるからでしょうね~(笑)
親戚が十二所(じゅうにそ)にあるので、時々金沢八景行きや大刀洗行きのバスに乗っていた
のです。
鎌倉駅からですと、八幡様の一の鳥居の前を右折し、真っ直ぐ進むと宝戒寺に突き当たります。
こちらが本堂です。
詳しくは金龍山釈満院円頓宝戒寺です。
ご本尊は地蔵菩薩~
天台宗のお寺です。
後醍醐天皇の勅命を受けた足利尊氏が、北条氏の霊を弔うため、また人材を育成するための
道場として、北条氏の屋敷跡であるこの地に建立しました。
今は、それ程広い境内ではありませんが、四季折々のお花が咲きてとても綺麗です。
このブログの上の写真の芙蓉も宝戒寺のものです。
また、萩の寺としても有名ですね~。
下の写真は私が前にブログにアップしたものです。(9月撮影)
こちらも前に載せた写真です。
白いヒガンバナも沢山咲きますよ~。(9月撮影)
宝戒寺を後にして、先に進みます。
小町大路(こまちおおじ)の宝戒寺の並びに昔からある和菓子屋、美鈴さんに寄りますね~。
こちらが、5月の季節の和菓子、昇鯉です。月ごとに代わります。
こちらは練り切りです。お餅も2種類入っています~。
目的地の東勝寺跡に向かいます。
小町大路を少し歩いて、左に曲がり、滑川(なめりがわ)に架かる東勝寺橋を渡ります。
滑川です。
滑川は朝比奈峠から流れて来て、鎌倉の海に注いでいます。
滑川を境に由比ガ浜と材木座に分かれているのかな~。
こちらは反対側、下流方面です。
流れのそばに人がいますね~。
来た道を振り返ります~
今は住宅地になっているこの辺り、小さな公園も有りますね~。
東勝寺橋ひぐらし公園~。
夏の夕暮れ時にひぐらしが鳴くのですね~
坂道を上ります。
真っ直ぐ進むと、祇園山ハイキングコースの入口です。
左手に草に覆われた空き地があります。
こちらが国指定史跡 東勝寺跡です。
案内板です。
国指定史跡 東勝寺跡
東勝寺は、13世紀前半に鎌倉幕府3代執権の北条泰時により、得宗家(北条氏嫡流家)の
氏寺として創建されました。
様々な宗派を学ぶ諸宗兼学の寺院であると共に、周辺の地形と一体になった防衛のための
城郭的な機能も持っていたと考えられています。
元弘3年(1333)、新田義貞らの鎌倉攻めにより、幕府の最高権力者であった北条高時は、
東勝寺で一族郎党と共に自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。
平成8、9年(1996、1997)に行われた発掘調査では、幕府滅亡時に焼失したと考えられる
建物の跡と、それを覆う10数cmの炭の層が発見されました。
焼失後間もなく東勝寺は、禅宗寺院として再興され、室町時代には関東十刹に列せられました。
しかし、16世紀後半頃には途絶えたと考えられています。(案内板より)
鎌倉幕府執権は16代執権、守時(17代貞将という説もあります)まで続きました。
得宗家(とくそうけ、とくしゅうけ)と言われる嫡流は14代高時までです。
執権の中でも主だった人物を簡単に書かせて頂きますと~
初代は北条時政、源頼朝の正室政子の父
2代 北条義時、承久の変に勝利し、鎌倉幕府を安定させた執権の1人です。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公~
3代 北条泰時、武家政権のための法令である御成敗式目を制定、
幕府の御家人支配をゆるぎないものに~
8代 北条時宗、蒙古襲来の時の執権です。
5代執権、時頼の嫡男ですが時頼が亡くなった時に幼かった
ため6代長時、7代政村と時宗が成人するまでの中継ぎが
続き、時宗が18歳になった時に7代執権、政村と
交代します。
政村が執権の時に朝鮮、高句麗王の使者が九州大宰府を
訪れ蒙古との緊張が高まっていました。
政村は2代執権、義時の五男ですが、執権を退いてからは
連署(れんしょ)という執権の補佐役に就き、執権時宗
と共に蒙古襲来という国難に立ち向かいました。
遥か昔のお話だけとも思えません~
14代 北条高時、北条得宗家(とくそうけ、とくしゅうけ、北条氏の嫡流)最後の
執権です。
今回のこの記事の主人公です。
先程の宝戒寺は高時の屋敷跡に建てられたと言われて
います。
この地で一族郎党と共に自害しました。
最期の日を迎える2年前の事です。
元弘元年(1331)後醍醐天皇が再び倒幕を企てて衣置山へ籠り、河内では楠木正成が挙兵
する元弘の乱が起こると幕府は軍を派遣して鎮圧させ、翌元弘2年(1332)3月に
後醍醐天皇を隠岐島へ配流し、側近の日野俊基などを処刑します。
皇位には新たに持明院統の光厳天皇を立てました。
そしていよいよ、元弘3年(1333)です。
2月に後醍醐天皇が隠岐を脱出し、伯耆国(鳥取県)の船上山で挙兵すると、
幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と
御家人の筆頭である下野国の御家人足利高氏(尊氏)を送りましたが、
高氏(尊氏)は後醍醐天皇方に寝返ってしまい、
、
5月7日、六波羅探題(鎌倉幕府の職名、出先機関)を攻略~
8日、関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破し鎌倉へ進撃しました。
18日、新田軍が鎌倉へ侵攻すると、しばらくは幕府軍も持ちこたえましたが、
4日後の22日に守備を突破し、鎌倉市内に乱入しました。
鎌倉には7口と呼ばれる切通しが有ります。
新田義貞はそのうちの3か所、巨福呂坂、仮粧坂、極楽寺切通から攻めようとしました。
鎌倉勢も必死で切通しを守ります。
ですから、どこも大変な激戦になりました。
文部唱歌の鎌倉の1番をご存知ですか~
七里ガ浜の磯伝い
稲村ケ崎名将の
剣投ぜし古戦場
切通から攻め込むだけでなく新田義貞は、海岸沿いから攻め込もうとしました。
剣を投げたとなっていますが、干潮を待っていたのでしょうね~。
では、その北条氏最期の時を再現してみますね~。
元弘3年(1333)5月22日、後醍醐天皇に呼応して鎌倉に攻め寄せた新田義貞の軍勢を
迎え撃とうと、北条高時ら北条氏一門が、城郭的な機能も持っていた東勝寺に
立て籠りましたが、成すすべもなく自ら火を放って自刃しました。
これを東勝寺合戦と言います。
太平記には、自害した者は一族、家臣283名、それに後に続いた兵を合わせて870名余りで
あったと記されています。
北条高時は14代執権ですが、正中3年(1326)、病気のため24歳で執権職を辞して
出家していました。
ですから、幕府最期の時には、その後の執権や前の執権も運命を共にしました。
15代執権 北条貞顕 東勝寺で一族郎党と共に 自刃 享年56歳
16代執権 北条守時 倒幕軍を巨福呂坂(こぶくろざか、切通の一つ)で迎撃、
激戦を繰り返していましたが、最期は自刃しました。
享年39歳~
13代執権 北条基時 倒幕軍と戦いましたが遂には自刃~享年48歳
先程の草に覆われた空き地の横です。
切腹やぐらの石票です。
北条高時が一族郎党と共に自刃した場所といわれている腹切やぐらです。
実際、「霊所浄域につき、参拝以外の立ち入り禁 宝戒寺」
と書いてあります。
草がうっそうと茂り、何だかちょっと、怖いです~。
草を掛け分け進みます。
卒塔婆が建てられています。
横の危険の標識は、落石が危険ということだそうです~
やぐらの中です。
今は草に覆われひっそりしています。
様々な思いを胸に一度に800余人の方々が命を落とした場所です。
鎮魂という言葉しか浮かびません~。
どうか安らかに~
ご訪問くださり、ありがとうございました~。