ケイと相坊の無知、無恥、ふたり旅。
こんにちは~。
お久し振りです。
梅雨に入ったのに、雨が少ないような気もします。
皆さま、いかがお過ごしでいらっしゃいますか。
前のブログで、「鳥取城」の「仁風閣」のことを書かせて頂きました。
今回はその続きで、「仁風閣」から見えた「石垣」の方へ行ってみますね。
鳥取城「中仕切門(なかじきりもん)」です。
「中仕切門(なかじきりもん)」は「鳥取城跡」の中でも、その面影を今に伝えてる数少ない遺構です。
元のものは台風で倒壊しましたが、昭和50年(1975)に復旧されました。
その際、木材や瓦は新調されたそうです。
こちらの地図はいつの時代のものかは分からないのですが、図が分かり易いので載せますね。
(画像をお借りします。)
「中仕切門(なかじきりもん)」をくぐりましょう。
私は「鳥取城」のことをまるで知らないのですが、案内板があります。
案内板を参考に「鳥取城」のことで分かったことを書かせて頂きますね。
「鳥取城」は、「戦国時代」から「江戸時代」にかけて造られたお城で、別名「久松山城」、「久松城」。
国の史跡に指定されています。
「戦国時代」から「江戸末期」にかけての城郭形態の変化を伺うことが出来ることから、「城郭の博物館」
ともいわれているそうです。
「織田信長」の「中国攻め」では、家臣の「羽柴秀吉」が「兵糧攻め」を用いて攻略しました。
この時のお話は、巷間伝えられています。
「鳥取の飢え殺し(とっとりのかつえごろし)」といって、天正9年(1581)、「羽柴秀吉」が時の城主
「吉川経家」の籠る「鳥取城」を約2万の兵で包囲した作戦です。
「秀吉」の「鳥取攻め」は、二度に渡り行われましたが、二度目の「鳥取攻め」の時です。
この「兵糧攻め」は、それはそれは、過酷なものでした。
「鳥取城下」では、お米の不作により米価が高騰していました。
その上、「秀吉」が「因幡侵攻」の下準備として、商人に米を高値で買占めさせ、「毛利家」が「鳥取城」に
「兵糧」を送り込むのを徹底的に阻止する工作を行っていました。
また、「鳥取城」では、「兵糧米」の備蓄を「鉄砲」、「弾薬」へと交換していて、城兵1500名に対しお米の
備蓄は200俵しか用意されていなかったそうです。
兵一人に8kgしか割り当てられなかった計算になるのだとか。
このような諸般の事情により、わずか1ヶ月で「鳥取城」は「兵糧」が尽き、餓死者が出始めました。
一人当たり8kgのお米では仕方が無かったのです。
「鳥取城」は、尾根伝いに「雁金山城」、「丸山城」と2つの支城をもっていたのですが、「雁金山城」を猛烈に
攻められ落城したため、「丸山城」とも連絡が取れなくなってしまいました。
「雁金山城」の敗残兵や周囲の村人が「鳥取城」に集まる形になり、逃散民や兵士たちの食料が遂に
絶望的になりました。
「鳥取城」に逃げ込むように仕掛けたのも「秀吉」の作戦だったようです。
日本史上に人肉を食したという記録はほとんど見当たりませんが、その例外中の例外が、この「秀吉」に
よる「鳥取城攻め」なのだそうです。
昼夜を問わず打ち込まれる鉄砲で、城内はほとほと疲れ果て、飢えと疲労で、兵士と住民たちはもはや
正気を保つことさえ困難になっていました。
飢餓に苦しむ人々は、鉄砲で打倒された人の人肉を奪い合ったとか。
それでも「経家」は耐え抜き、4か月も籠城し続け、ついに天正9年(1581)10月に降伏しました。
城主である「経家」らの切腹と引き替えに士卒兵卒の助命が聞き入れられ開城しました。
でも、生き残った兵士たちも、空腹の余り勢いに任せて配給の米を食べ、次々と胃痙攣を起こし死亡し、
生き残りの兵のうち約半数が死亡したという悲惨な記憶も残っているそうです。
「秀吉」は「帝釈山」(現在の太閤ヶ平、本陣山)に「本陣」を構え、「帝釈山」山頂も含めて14~15の
「砦」を瞬く間に完成させ、あっという間に「鳥取城」を包囲してしまいました。
前の記事で、お堀を渡って直ぐの所の「北ノ御門跡」の写真を載せましたが、その辺り向かって左側に
「鳥取城跡附太閤ヶ平(とっとりじょうあとつけたりたいこうがなる)」という石碑がありまして、そこも
「秀吉」の「鳥取城攻め」の際に築かれた付城(前線基地)だったようです。
「石垣」がずっと続いていますね。
現在見られる石垣で造られた城(近世城郭)の姿は、天正10年(1582)から嘉永2年(1849)の約270年
の間に段階的に整備されたものです。
ですから、「秀吉」の「兵糧攻め」があった時は天正9年(1581)ですから、まだ石垣はなかったのですね。
開城後、入城した「宮部継潤(みやべけいじゅん)」によって、「石の城」(近世城郭)へと改修しました。
石垣に瓦葺の天守を備えた「安土城」を「織田信長」が築いて以来、「権力の象徴」として各地に築かれて
いきました。
そのような中での改修でした。
その後、元和3年(1617)に入城した「池田光政」は、それまで5~6万石規模であった城を32万石の居城
として一新します。
「中ノ御門」から続く「大手登城路」や、「天球丸」、「二ノ丸」も整備し、城の主要な部分はこの時に完成しま
した。
実は私たちが通って来た「北ノ御門」からの道は、築城当寺はこちらが大手門だったのですが、元和5年
(1619)「池田長吉」によって、「中ノ御門」が「大手門」に改められたらしいです。
私たちは、「中ノ御門」を通って来ませんでした。
石段を登ると視界が開けます。
先程行った「仁風閣」を今度は上から見ることが出来ます。
野生動物(イノシシ、クマ)出没に注意~ ホント~
音の出るもの~ 好きな曲でも流しちゃいましょうかね~ (笑)
更に石段は続きます。
「御三階櫓」を下から見たところです。
こちらからも登って来られるのですね。
高くて急な石垣が複雑に曲がり、圧巻です~
広い場所に出ましたが、「二ノ丸跡」です。
こちらに登って来る途中から、とても良い香りがします。何の香かなと思ったら~。
「フジ」が満開なのですね~
「鳥取城」は開城後、入城した「宮部継潤(みやべけいじゅん)」によって「山上ノ丸」の改修が行われ、「江戸
時代」には「鳥取藩池田氏」の治下に入り、麓の「二ノ丸」以下の「曲輪(くるわ)」が拡張されました。
現在は、「天守台」、「石垣」、「塀」、「井戸」などが残されています。
最初に築城したのは誰か、ということは実は、はっきりしてないようです。
「戦国時代」中期の「天文年間」に因幡の守護である「山名誠道」が「久松山」の自然地形を利用した山城と
して築城したといわれてきましたが、近年の研究では「山名誠道」の「因幡山名氏」と対立する「山名祐豊」
の「但馬山名氏」の付城(つけじろ、出城)として成立した可能性の方が支持されているようです。
正式に城主が確認されるのは、元亀年間(1570~1573)の「武田高信」からだそうです。
「二ノ丸跡」を歩きます。
「二ノ丸跡」からも、鳥取市内が見渡せます。
本当にこれ程の石垣は圧巻ですよ~
平地からいきなり斜面に向かって伸びている石垣です。
珍しいと思います。
「二ノ丸跡」には、桜が沢山植えられています。満開の頃来たら、綺麗なのでしょうね~。
正面に見えるのは、「鳥取城二ノ丸三階櫓跡」の石垣です。
史跡鳥取城跡附太閤ヶ原 二ノ丸跡」の案内板です。
「二ノ丸」には、「江戸時代」の前期には、藩主が住み、家老などが政治を司る、藩主の御殿がありました。
左手が「二ノ丸三階櫓跡」の石垣です。少しだけ、「仁風閣」も見えますね。
「石切場跡」です。
「史蹟鳥取城跡附太閤ヶ平 石切場」の案内板です。
この辺りには昔「久松山」の中腹から続く尾根があったようです。
「二ノ丸」の敷地を造る時、その尾根を切り崩しながら、得られた石材で石垣を造ったようです。
「鳥取城」の石垣は他から運ぶことなく、ほとんどこの「久松山」でまかなえたようです。
先程から見えていた石垣の土台は、「鳥取城二ノ丸三階櫓」の石垣です。
「享保十三年銘 鳥取城二ノ丸三階櫓石垣 天端角石」の案内板です。
この案内板の写真ですと分からないのですが、もう一つ上の写真をご覧頂くと、この案内板らしきものの
上に四角い石が見えますが、その石のことだと思います。
銘文が発見されたそうで、かかわった人々の名前が刻まれているそうです。
享保5年(1720)の火災で焼失した「三階櫓」が享保13年(1728)に再建された時、建物だけでなく石垣も
修復されていたことが分かります。
「史蹟鳥取城跡附太閤ヶ平 二ノ丸三階櫓石垣の修復」の案内板です。
それでは、「二ノ丸三階櫓跡」に登ってみましょう。
この「櫓台」には、1階8間四方、2階6間四方、3階4間四方の櫓が建てられていました。
城内には幕府の規制で三階以上の建物はありませんが、「二ノ丸」には創建時、最新の建築様式だった
層塔型(正方形の櫓台に築かれ、上階を下階より規則的に小さくして積み上げた櫓。初期のものは装飾が
ないデザインが特長)の「三階櫓」が、「山陰地方」で初めて建てられました。
元禄5年(1692)に「山上ノ丸」の「天守櫓」が焼失した後は、この櫓が「鳥取城」を象徴するものとなり、
明治12年の解体撤去までその威容を誇っていました。
「櫓台」の上です。
「二ノ丸三階櫓跡」から見た「二ノ丸」です。
「鳥取城」は時代が下るにつれ、「藩主」の生活と「藩」の役所を担った「御殿」を中心に増改築されていき
ます。
「江戸時代」の終わりには、「二ノ丸」や「三ノ丸」が大きく拡張されたほか、「三ノ丸」の南側には凶作に備え
て籾を保管する倉庫群が造られました。
城内の建物は、「明治時代」に大半が取り壊され、残った石垣も昭和18年(1943)の「鳥取大地震」で
多くが崩れました。
下りて、「二ノ丸跡」を歩きます。
修復中の場所が多いです。
可愛いお花が咲いていますね~。
また、土台のようなものが見えますね。
ここは、「菱櫓跡(ひしやぐらあと)」です。
「菱櫓跡(ひしやぐらあと)」の案内板です。
「菱櫓跡(ひしやぐらあと)」は、平面形が「菱形」に構築された「櫓台」の上に建物が建てられ、建物も
「菱形」だったとか。
「櫓台」には、二層の櫓が建ち、1階は4間四方でした。
「二ノ丸」の西南隅の「三階櫓」と東南隅のこの「菱櫓」の対比で、「鳥取城」の風格を表していて、
「明治維新」までその偉容を誇っていました。
「菱櫓跡」近くの「表御門跡」(「二ノ丸表門跡」)です。
こちらも修復が行われているようです。
「史跡 表御門跡」の標識です。
修復中の写真を~。
「三階櫓」付近に戻ります。
赤い鳥居がありますので、くぐってみましょう。
「天球丸巻石垣展望所」の矢印が~。
お参りしたのですが、横にまだ階段が続いていますね。
私は登ろうと思うのですが、相坊は先程の修復中の所をもっと見たいのだとか。
「写真を撮ってきてあげる」と一人で登り始めます。
「この先あぶない」の表示がありますね。
まだずっと、石垣が続いています。
更に登ると、このような案内が~。
山頂の「山上ノ丸」へ行く道と、「天球丸」が展望出来る場所に行く道との分かれ道です。
山頂の「山上ノ丸」へ行く道を登り始めたのですが、写真にも小さく写っていますが、またまた、
「熊注意~」の看板が置かれています。
一人じゃ、怖いわぁ~ 何人いても、怖いよ~
山頂の「山上ノ丸」に行くのは断念します。
「久松山」は標高が263mだそうです。
この辺りから登っても、30分くらい掛かりそうです。
結局「天球丸」にも行きませんでした。
「天球丸」はとても珍しい「巻石垣」です。
(ウィキペディアより画像をお借りします。)
山頂の「山上ノ丸」までは行かれませんでしたが、満足出来ました。
「鳥取城」は、「石垣」のお城でした。
印象に残るお城でしたね~。
入る時にもこちらの歌碑が気になっていたのですが、帰りによく見てみました。
「故郷(ふるさと)」は、「高野辰之」作詞、「岡野貞一」作曲による文部省歌です。
♫兎追いし~・・・
「岡野貞一」氏が鳥取市の出身なのですね。
「高野辰之」氏の出身地の長野県長野市にも歌碑があるそうです。
5/24
つづく
ご訪問くださり、ありがとうございました。