3日目。宿泊した大船渡プラザホテルから大船渡港方面の様子。ほとんどの建物がなくなっています。
ホテルの朝食。
地盤沈下で道路からの雨水を防ぐための土嚢が、道路沿いの並べられていました。
BRT大船渡駅。ここを気仙沼線が通っていたと思えないほど、様子が一変していました。
わずかに、ホームの痕跡がありました。
8時5分発気仙沼行に乗って陸前高田を目指します。
天気が良ければ、左手に大船渡湾を見ながら進むのですが、いつ雨が降ってもおかしくない天気です。
細浦駅周辺も、ここに駅があった知は想像できません。
本来の大船渡線は、小友を過ぎると広田湾に沿って陸前高田へ進むのですが、バスは山側の道路を進みます。
山間には、至る所に仮設住宅がありました。
木を伐採して、宅地を造成しているところも数多くありました。
8時50分。陸前高田駅に到着。本来の駅の位置から直線で1km以上離れた高台にある、仮設の市役所の隣に移転していました。
ここで約1時間あるので、奇跡の1本松へタクシーで向かいました。
10時41分発の気仙沼行に乗ることを伝えると、それに間に合うように市内を案内してくれることになりました。
旧市街地は、がれきも片付けられ何もありません。
長年タクシーの運転をしていても、夜になると街灯も信号も、目印になる建物も何もないため、迷うこともあるとのことでした。
陸前高田駅舎があったところから、駅前方面の様子。
草ボウボウですが、ホームの姿が残っていました。
米沢商店のビル。悲劇を2度と繰り返してはいけないと、その教訓を伝えようと、被災したビルに、津波が到達した高さが分かるよう煙突に看板が設置されていました。
「道の駅 高田松原」。震災遺構として保存が検討されているそうです。
内部は、御覧の状態でした。
道の駅の目の前には、追悼施設が建てられていました。
「奇跡の一本松」と旧「陸前高田ユースホステル」
長期休業中だったユースホステルの建物が、1本の松を守ったかのようにも見えます。この建物も震災遺構として残すことが検討されているそうです。
広田湾に注ぐ気仙川河口近くに建つ気仙中学校。3階の校舎が津波に飲み込まれ全壊しましたが、全員高台に避難し人的被害がなかったことから、ここも震災遺構となるそうです。
山から土地のかさ上げ用の土を運搬する作業が行われていました。
流れ着いた廃材を組み「幸せがくるように」と、映画好きの土地の持ち主が自宅跡にハンカチを掲げたそうです。この話を聞いた「幸せの黄色いハンカチ」の山田洋次監督が、その隣に映画と同じ丸太を立てることを提案して寄贈された物だそうです。
10時8分。大船渡行で終点まで行きます。
鹿折唐桑駅前には、港から700m以上流された第18共徳丸が道路脇に倒れないように支えがされていました。
気仙沼湾が見えてくると、間もなく終点。
10時41分、気仙沼駅到着。
つづく