夏の観光シーズンというのに訪れている人もまばらで、北方領土に対する国民関心は、必ずしも国の予算に比例しているとは思えない感じがしました。
時間が無いことも有り中に入りませんでしたが、100m近い高さの平和の塔がありました。展望台から北方領土を一望できる施設ですが、これは笹川良一氏が昭和62年に北方領土返還運動の象徴とて建設した「笹川記念平和の塔」と言う名称でしたが、所有権が移り今では特定非営利活動法人望郷の塔が運営していることから、「望郷の塔」と呼ばれていました。
観光地であることを思わせるものもありました。
お土産屋さんの壁には、「納沙布岬到達証明書」の看板が有り、記念写真を撮ることが出来るようになっていました。
また、公衆電話ボックスは流氷を模した形になっていて、アザラシがのっていました。
さて、納沙布岬を出たバスは、根室湾に沿って進みます。途中、貝殻島コンブ漁基地とエゾバフンウニ種苗生産センターのある温根元を通り、アイヌ語の「沼の傍らの広いところ」を意味する汽水湖のトーサムポロ沼を渡り、根室十景の一つ北方原生花園につきました。
北方原生花園の広さは75㏊でヒオウギアヤメやエゾカンゾウ、ネムロタンポポ、キンポウゲ、トウゲブキなど100種類ほどの植物とミズナラの林、湿原からできていて散策路が木道で作られいました。そしてここの特徴は、原生花園の中に馬が放牧されている事だそうで、普段から原生花園の入口の扉は閉められフェンスで囲まれていますが、これは馬が外に出ないようにしただけで人間は自由に中に入ることができるそうで
す。
納沙布岬から25分ほどで下車見学の金比羅神社に到着しました。ここは、文化03年(1806年)、高田屋嘉兵衛によって創設されたそうです。
御祭神は、海上交通の守り神として漁師、船員などの海事関係者に信仰されている、讃岐「金刀比羅宮」の御祭神、大物主神(おおものぬしのかみ)を主神に、事代主神(ことしろぬしのかみ)、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)の御三神をお祀りしているそうです。
高田屋嘉兵衛と言えば、淡路島に生まれ、一代で廻船業を営むまでになり、函館に北洋漁業の基を築いたことで知られていますが、国後島と択捉島間の航路を開いたり、鮭・鱒が豊富な択捉島に17ヶ所の漁場を開き、島に原住していたアイヌを雇って漁法を教え、彼らの生活向上させたりと、北方の開拓に功績のあったことでも知られています。
また、日ロ友好にも一役買ったことでも知られています。それは、嘉兵衛が北方で活躍していた頃、鎖国を理由に通商を断られたロシア使節レザノフが、武力行使で日本側に通商を認めさせようと、本国の許可も得ず、択捉島に住む日本人を襲うといった事件が起こり、たまたま千島海域の地理を調査中であったロシア皇帝艦ディアナ号のゴローニン艦長が、国後島で水・食料の補給をしようと、交渉のため上陸した途端、警備隊に捕らえられるということがおこりました。
副艦長リコルドは船長の消息を聞き出すためそのとき偶然近くを通りかかった嘉兵衛の船を捕らえ、嘉兵衛を船員と共にカムチャッカへ連行し抑留しました。嘉兵衛はリコルドと同じ部屋で寝起きを共にするなかで、ロシア政府が許可も関知もしていないという証明書を日本側に提出するようにと説得、その言葉を聞き入れたリコルドは嘉兵衛と共に日本に戻り、2人の協力でゴローニンは釈放され両国が和解しました。
平成18年には、カムチャツカ州政府はロシア地理学会の発案を受け、ナリチェヴォ自然公園内にある名前が付いていなかった3つの山に、それぞれ、「ヴァシリー・ゴローニン」(1333m)、「ピョートル・リコルド」(1205m)、「タカダヤ・カヘイ」(1054m)と名づけたそうです。
さて、ここにも北方領土問題が残っていました。終戦後、島を追われた人がどうにか持ち出した11社の御神体がここに預けられていて、毎年各社例祭日には、元島民をはじめとする方々が金刀比羅神社社殿で祭典を行い、一日も早い北方領土の返還を祈念しているそうです。 金比羅神社から10分ほどで、終点根室駅前ターミナルに到着します。
途中、稚内と同じように英語に加えロシア語の表記のある案内標識を見ました。これは、ロシア船入港が稚内に次いで根室が第2位ということからのようです。
つづく