源徳寺 ~吉良の仁吉墓所~(西尾市) | ハニーちゃんがゆく!

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令和5年12月14日参拝

歩く気になれたのは穏やかな冬晴れのおかげか。

華蔵寺から30分歩いて横須賀ふれあいセンターで講演会見て、華蔵寺にまた戻るつもりではいるけど、せっかく駅の近くまで来たのにただ戻るのイヤじゃん☹️



そんでGoogleマップを見たら吉良三人衆(吉良町ゆかりの3人)のひとり、吉良の仁吉の墓がまあまあ近いと分かりました。

到着した頃は足引きずってましたワ。



吉良史跡保存会だって。

吉良史跡保存会と吉良史跡保存会ってのもあるけどそれぞれ違う団体なのでしょうか‥。



源徳寺は浄土真宗大谷派の寺院です。

源徳寺9世了純に深く帰依した吉良若狭守義冬(義央の父)が山門と鐘楼堂を建立し、吉良家の岡山陣屋を移築して庫裏を寄進するなどしましたが昭和20年の三河地震で倒壊してしまったそうです。



この顔出しパネルはやりたかった‥(;ω;)

ひとり旅のつらいところよ。



かなり見応えのある墓じまいコーナーがあって、



その横が仁吉の一周忌に清水次郎長が建立したと伝えられる大きな墓でした。



吉良仁吉とはひと言で言えば清水次郎長の舎弟なんですけど、それだけじゃ墓は建ちません。

飛び入り相撲で大関を投げ飛ばし興行主から命を狙われた仁吉はその腕っぷしを買われ近隣の寺津間之助に匿われてやくざの道へ足を踏み入れることになります。

その後、間之助の兄貴分である清水次郎長に預けられ部屋住みをして数年後に地元で吉良一家を興します。

同じく次郎長傘下で兄弟分の神戸長吉が穴太徳次郎に縄張りを奪われ抗争に発展した際に、仁吉は長吉の頼みに応じて子分らと共に戦い穴太徳に大勝するが28歳の若さで命を落とした、

これが幕末の博徒史における最後の大事件といわれる「荒神山の喧嘩」です(ざっくり)。

 

江戸時代に賭場の開帳は違法だが、荒神山観音寺では例祭にあたる4月6日前後の6日間のみ「神事」として盛大な賭博が開かれていて大事なシノギだったわけです。



見逃してしまいそうな小さな墓石は、仁吉の跡目を継いだ吉良一家二代目吉良勘蔵と三代目米津兵太郎、そして次郎長一家28人衆の鳥羽一家二代目子安伝四郎の墓だそうです✨



手ぶらでも安心のお参りセットあります。

お線香10円、勝々石100円。



勝々石(必勝かち勝石)とは仁吉の墓石のカケラが入ってるんだと思います。

ギャンブル仲間にぴったりのお土産ではないか。




義理と人情を貫いた仁吉の生き様に感動。

競輪でドカンと当てたい気持ちもありますが人生ギャンブルですから、多方面に幅広〜くお守りいただけるよう、なもあみだ🙏

本堂の一部が仁吉ギャラリーになってるという立て札があったのでさっそく本堂へ。



貴闘力関の手形♡

引退後の写真もあるし、お寺とお付き合いがあるのかしら。



五木ひろし‥?

墓前祭でもあるのでしょうね。



源徳寺といえばこの人形☆

老人ホームの皆さま手づくりだったのね。



こちらはホンモノの遺品?



次郎長一家 荒神山の喧嘩手打ち式‥!?

ほんとなの?(゚Д゚≡゚д゚)

集合写真が残ってるとかすごくないw



こちらも興味深い番付です☆

吉良仁吉の名前を前頭に発見 👀

自分のルーツが分からないなんて人も、割とこの番付表で簡単に判明したりして〜🤣



表に『義理と人情 吉良町』と彫られてた御影石。

裏側には‥

これほど わが吉良荘にぴったりの言葉はない

任侠太田仁吉の墓前にその真を捧げる

昭和55年4月8日 吉良町長 〇〇〇〇

(゜д゜)公費で建立とは景気いいね!



たっぷりと見学した後に御朱印をいただきました。

三州吉良 吉良仁吉墓所、真宗のお寺でいただく観光御朱印てすごく好きです。



お寺の隣がいい感じの喫茶店でやっと食事できた。

ゆっくりしたらまた出発です (*´Д`)y-~~~ウマー!




◾️源徳寺

愛知県西尾市吉良町上横須賀寒破池127

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・どーでもいいはなし

東京に帰ってからお土産の酒蒸しまんじゅう食べようとしたら三度笠に仁吉の焼き印があるじゃない!

仁吉の人柄をイメージさせるようなふんわり優しい酒の香りとさっぱりしたこしあん。

御菓子所東角園:仁吉ほろ酔い饅頭 ★★★★★