龍穏寺(入間郡越生町) | ハニーちゃんがゆく!

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令和2年10月11日参拝
前日までの大雨の影響で桂木観音からの山道は落ち枝がすごくて通れず、
一度町に出て梅林からまわったのでかな〜り時間がかかってしまった (›´ω`‹ ) 


冠木門と六臂観音が見えてきたらこの先がお寺の駐車場です(やっと)。


素朴な総門の向こうには‥



ここ埼玉よね!?と疑う w(*゚o゚*)w
まあ、埼玉らしいといえばそうなんだけど。


近づいてみるとさらにすごくて下層の表裏に四天王が安置されていた。
左側手前から奥に増長天→広目天、
右側は持国天→多聞天。


唯一手ブレがなかった増長天さん。


龍穏寺は曹洞宗の寺院で本尊は釈迦牟尼仏。
大同2年(807)修験者によって建立された長昌寺がはじまりと伝えられています。
永享2年(1430)室町幕府6代将軍足利義教が扇谷上杉持朝に再建を命じ、
児玉党出身の高僧無極慧撤を開山に迎えて曹洞宗の寺院となりました。



復興から間もなく龍穏寺は戦禍に焼失。
扇谷上杉方で活躍していた太田道真・道灌父子は内乱による戦歿者を弔うための寺を作ろうと二人が帰依した泰叟妙康を三代住職に迎え、
6代将軍義教の33回忌を控えた文明4年(1472)中興を成し遂げました。



関東では上杉と足利がずっと揉めてて享徳の乱という約30年に渡る大乱に伴う乱があちこちで勃発してひと足お先に戦国時代となったらしい。



その時代のこと調べるたび扇谷上杉なんなのって感想しかなくてw
無能過ぎてただ呆れるんだけど!
ほんと道灌さまお疲れさまでした。

何ヶ所かに江戸城外濠の石

江戸時代になると龍穏寺住職は僧録司に任じられ関東の寺を治める大僧録所を務め、
歴代住職から13人が大本山永平寺の貫主を務めるという名門中の名門といえるお寺になっていたのでした。


太田道真・道灌父子の墓所は本堂から近い高台にありました。


一族墓の中にお二人の五輪塔が建ってます。
㊧太田道真
㊨太田道灌(分骨墓)


越生には道真の砦かなんかがあったから道灌の出生地じゃないかって話もあるのよ〜とお寺の方が話してくれまして、
激しい時代に生きた人なのに故郷で父の横に葬られているなんて幸せだなあ 😢


越生町はユズの産地なのです (*˘◡˘*) 
境内に甘酸っぱい香りが漂っていました。
香りに誘われなかったらこのまま帰っていたかもしれない (・・;)


何かあるのか〜と歩いてたら土蔵造りの経蔵(埼玉県指定有形文化財)が出てきた。
内部には一切経が収納された八角転輪蔵があるそうです。


4面にはめ込まれた岸亦八の彫刻、
この面は道元さんが宋から帰国する様子。
外観は地味めだけど銘板によると内装がすごいらしい。


名残惜しいけど帰ります。
また違う季節に来ますからね パー


龍穏寺の御朱印です。
ふわっとした墨書きがすごく好き!


通りがかった越生の梅園は葉っぱでこの迫力ですから花が咲いたらすごいのでしょうね。
何日か前に見頃情報をもらって今年は空いてるだろうから行きたかったけどタイミング合わず時期を逃した。
毎年のことだけど今年も残念。



■長昌山 龍穏寺
埼玉県入間郡越生町龍ヶ谷452

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たまに利用するみなと図書館の前に第五台場から移された石垣石があるのです。
前を通るたびになぜこの石が港区の文化財なんだろうと思ってたけど、
今は無き第五台場の遺構というだけでなく、
飯能の石垣職人 八徳の三吉が積んだ(かもしれない)砲台、というのもあるんじゃない。
龍穏寺では八徳の三吉が積んだ石垣がどれか分からなかったけど、
飯能あたりだと三吉の名前よく見かける。