天空をみつめ新たな世界を | 無門会空手のブログ

天空をみつめ新たな世界を



以前に書いたように私が空手🥋修行🧘として本格的に山籠り修行したのは


極限の基礎体力育成期

①1973年の6月7月8月9月(途中)

の基本鍛錬稽古中心の100日修行(上の写真時)


の時と


1974年〜1975年時代

(基本鍛錬中心から、最高の組手を解き明かす努力の2年)『大学生20〜30人相手に受けの100人組手修行🧘時代』

(地獄の受けの訓練からユッタリズムが生まれた。日本獣医畜産大学のウエイト部、探検部、山岳部、法政大学、他色々の学生🧑‍🏫👨‍🎓、S大学、J大、専門学生)(足🦵サポーター無しの受けから始まった)


極真会第5回全国大会準優勝の山崎照朝選手の半後屈立ちを参考にした『膝受け即回し蹴り』の受け、受即攻から開始した。1974年3月4月5月6月7月8月9月と(攻撃訓練も含めて、受けの100人組手は続いた。そして受け技の完成度が高くなるとユッタリズムが開花していった、さらにマス大山の『続・秘伝極真空手』(英語版アドバンス空手)を参考に『1の円』(マス大山が切り開いたレベル)の世界を知り、10月11月12月1974年1月2月3月とユッタリズムの進化と、『1の円』『2の円』『3の円』の研究は極限まで進化していていった。



2007年3月31日フランス🇫🇷パリのベルシー体育館で公開する元が完成した。


無門会内では1982年7月に山縣選手(1の円、2の円、3の円公開)、清水透六段を相手に猫足立ちの円の受即攻、後屈立ちの受即攻、


そして清水四段(当時)『30%手抜きした究極の前屈立ちの受即攻』を弟子達に公開、ビデオカメラで撮った)


1974年の9月10月12月の猫足立ち系のユッタリズムの開眼、そして1975年の『1の円』『2の円』『3の円』を開拓完成していった。



1974年極真第6回全国大会で第5回の優勝者盧山選手が、1日目(この大会は2日間有った)の



他流派の前屈立ち系の選手の後ろ回し蹴りでKOで倒されたり、


2日目の東孝選手の連続下段回し蹴り攻撃に、盧山選手の得意の後屈立ち受即攻がほとんど効かずに判定負けしたことで、


後屈立ちの『受即攻』訓練は何が良く無いのか、『受即攻』の中段突きは何故良く無いのか、


『受けて返しの時間の遅さはどうなのか?』研究を加えて、後屈立ちは深く研究すべきでは無いと判断した。


そして後屈立ちの受即攻研究の傍で、前屈立ちの受即攻を研究していった。


中山正敏首席師範が審判をやったりしていた🇯🇵


日本空手協会に全国大会に見学に行き、また和道会、糸東流、剛柔流、日本拳法などを日本武道館、後楽園ホールなどを見に行って『突き技を受即攻できる選手がいるが、団体はあるのか?』探したが、一人もいなかった。


1970年前後から各流派の全国大会は毎年見学に行っていた。


特に技術書(ベスト空手)で攻撃技だけで無く、前屈立ち系の『受即攻』を書いて『自由一本組手』の高度な理論を書いてある


中山正敏首席師範の松濤館空手を注目して



1970年1971年1972年1973年1974年1975年は


毎年全国大会の優勝者の『突き対する受即攻レベル』を研究しに行っていたのである。


残念ながら受けの甘さを突く攻撃は鋭いが、まともな受即攻者はどこの団体、日本空手協会にもいなかった。


既成の空手🥋団体には『突きを受即攻できる理論と実戦は無い』


と判断した私は


独自の訓練方法を考えて、その訓練本数を


『世界のホームラン王』の『100万本』を参考に、空手の突きの受即攻はプロ野球の3倍は難しい😓から


『300万本』朝から晩まで訓練しようと考えてついたのである。


『王貞治選手の100万本関連の3倍くらい訓練しなくては、前屈立ち系の空手の受即攻』


は完成しないだろう❗️



1975年後半から、1976年の山籠り準備を段階的に進めていった。

そして

②1976年の

1年の山籠り修行🧘に入ったのである。




前屈立ちの受即攻の300万本訓練をやるために1年の山籠り修行🧘が後半の


②の山籠り修行である。


②1976年の1年修行🧘

1月〜12月


1974年の猫足立ち、半後屈立ちの受けの修行🧘『毎日が受けの100人組手』、


ユッタリズムを確立した1974年に引き続き


1975年は『1の円』(マス大山は1の円まで確立した

『続・秘伝極真空手』)



私は『2の円』『3の円』を確立。


2007年3月31日フランス🇫🇷パリ、バルシー体育館でテレビ、2万人の観衆に公開した。



そして後屈立ちは、猫足立ちの受けの100人組手と言った過酷な稽古はやらず、


盧山初男選手の

『孤で受け直線で返す』


受即攻に限界を感じ、弟子数人に教えて指導をやめ、


『前屈立ち系の受即攻』を研究し、


高度な前屈立ち系の受即攻が猫足立ち系、後屈立ち系


より遥かに優れて完成👍するのには10万本50万本では


中途半端になると考え、

当時

王貞治選手を育てた

荒川コーチが


『王が一本足打法を確立するのには100万本は訓練した』


という談話を聞いて、猫足立ちの受即攻訓練、後屈立ちの受即攻訓練から比較して、


人類最高度の緻密で難しい😓


前屈立ちの受即攻技は


『王貞治選手の100万本の3倍』


くらいはやらなければマスターできないだろう!?

と考え、


300万本』を実践しようと決意したのである。


1975年である。


そして奥多摩のシオジクボ小屋に

1976年初頭から年末まで激しい訓練に明け暮れた。

受即攻1日1技1万本




上の写真は1973年の100日修行🧘の時のものである。


1976年度の写真では無い。


山の中腹に作った修行🧘場所🏟️から50mくらい登った日当たりの良い場所である。


100日修行🧘の時は、厳しい😰稽古だったが、受けも無かった基礎練習重視の時代だ。


まだ実戦の立ち方もロクに知らない

朝、チィチィという鳥の音で夜明けと同時に起き、山頂目指してマラソン🏃‍♀️が始まる。基礎体力、基本稽古が中心の修行だった。


2回目の時は、前屈立ち系の徹底した受即攻訓練(300万本)が目的であった。



無門会の弟子たちは日本獣医畜産大学で、鍛錬していた。


『師匠が山で受即攻鍛錬している』


ということで頑張って👍いたという話しは聞いた。


修行内容は弟子たちにはあまり教えていなかった。


本格的に教えたのは、10年後の1980年代中間くらいである。

1974年の日本獣医畜産大学🇯🇵での私の指導は、大変厳しかったそうである。


受けの相手だったお弟子さん達には、毎日弟子(俺を殺しこい!と言って弟子の攻撃を受けた)殺しのような厳しさであったようだ。

それでも人気で若者は増えていった。


虚空の空を観る写真の姿は、未来を見つめているのか?