「夫の介護、できますか?」――家庭内別居を続ける前に考えたいこと


朝日新聞be「悩みのるつぼ」2026.9.13.

60代の女性からのご相談です。

単に「夫婦仲が冷えた」という話ではなく、
不倫疑惑、威圧的な言動、老後不安、経済、介護、
これからの生き方
が重なっています。

夫が同じ趣味のサークルに通う女性と親しくなり、
LINEには毎日のやりとりや、会う約束の履歴が残っていた。
妻の勤務予定に合わせて会っていたようにも見える。
問いただしても、夫は認めない。

相手の女性にも「会わないでほしい」と伝え、
弁護士や女性相談にも相談した。

ところが夫は、
「食事はいらない」
「話もしない」と言い出し、
不倫の話をすると物を蹴飛ばし、「出て行け」と怒鳴ることもあった。

現在は家庭内別居。

離婚も考えたけれど、60代という年齢と老後の生活を思うと決断できない。

今の支えは、資格を生かした週5日のパート勤務と、孫の世話。
このまま家庭内別居を続けるなら、どうすれば自分らしく穏やかに暮らせるのか。
そんな相談です。

回答者の上野千鶴子さんは、
「決断するなら夫が元気なうち」と、
かなりはっきりした方向を示していました。

カウンセラーの視点では、
「離婚する・しない」を急いで決めるより、
まず“家庭内別居を安全に続けられる形”を整え、
そのうえで将来の選択肢を減らさないこと
が大切だと思います。
ただし、先延ばししすぎないこと。

目次

  1. まず「安全に暮らせる家庭内別居」になっているか

  2. 夫婦ではなく「同居人」として線を引く

  3. 夫から離れる時間と自分の居場所を増やす

  4. 「離婚保留」にも期限をつける

  5. 「夫の介護、できますか?」

1.まず「安全に暮らせる家庭内別居」になっているか

相談文で気になったのは、
物を蹴飛ばす。
怒鳴る。
「出て行け」と言う。

という部分です。

今は直接、身体的な暴力を受けていないとしても、
これは十分に威圧的です。

家庭内別居を続けるなら、
「顔を合わせない」
「食事は別」
「洗濯も別」
という生活上の工夫だけでなく、
相手が怒ったとき、自分はどこへ逃げるかまで
考えておいたほうがいいと思います。

鍵をかけられる部屋があるか。
すぐ外へ出られるか。
財布、スマートフォン、鍵、保険証などをすぐ持ち出せるか。
頼れる人はいるか。

「まだ暴力ではないから」と我慢しているうちに、
恐怖に慣れてしまうことがあります。

穏やかに暮らすための第一条件は、
安心して眠れることです。

2.夫婦ではなく「同居人」として線を引く

今の夫婦関係では、
「夫婦なのだから」を基準にすると、
つらくなると思います。

食事を作るべきか。
洗濯をするべきか。
体調を気遣うべきか。
話しかけるべきか。

そう考え始めると、役割だけが残ります。

今は、いったん「同じ家に住んでいる大人二人」
くらいに考えていいのではないでしょうか。

食事は各自。
洗濯も各自。
予定も各自。
必要な連絡だけする。
共有するお金、共有しないお金を整理する。

家庭内別居は、感情だけで続けるより、
ルールがあるほうが楽です。

特に「ここまでは自分がする」
「ここから先はしない」を決めておくと、
毎回迷わなくて済みます。
毎回迷う、臨機応変の対応というのは、
エネルギーを消耗します。

3.夫から離れる時間と自分の居場所を増やす

相談者さんには、すでに大切なものがあります。

資格を生かした週5日の仕事。
お孫さんとの時間。
私は、ここをもっと大切にしてほしい。

仕事は収入だけではありません。
自分の役割がある。
人と話す。
家とは違う自分でいられる。
誰かから必要とされる。

そういう時間は、家庭内別居を続ける人にとって、
とても大切な支えになります。

お孫さんとの時間も同じです。

ただ、孫はそのうち大きくなります。
孫の世話は、言ってみれば期間限定のお楽しみです。
だからこそ、「孫がいるから大丈夫」だけにせず、
これからは自分自身の楽しみや居場所も
少しずつ増やしておくといいと思います。

一人で出かける。
図書館へ行く。
習い事をする。
友人と会う。
一人で食事を楽しむ。

そんな「夫とは関係のない時間」を増やしていくこと。

家庭の中で夫と距離を取るだけではなく、
自分の世界そのものを広げることが必要だと思います。

4.「離婚保留」にも期限をつける

相談者さんは、
「このまま家庭内別居を続けるつもり」と書いています。

それでいいと思います。

ただし、「最後まで家庭内別居」と決めなくてもいい。

今は離婚しない。
半年後、また考える。
1年後、生活費や体調、夫の様子を見て考える。
それで十分です。

「離婚するか、しないか」
今は保留と考えてもいい。

ただし、保留には期限をつけること。

たとえば、「半年後にもう一度、弁護士に相談する」
「1年後に財産や年金、住まいを見直す」と決めておく。

そうすれば、「決められない自分」を責めずに済みます。

5.「夫の介護、できますか?」

回答者からの
「そんな男の介護ができますか?」
という問いは、とても重要だと思います。

今は夫が元気だから、家庭内別居もできます。

食事を別にする。
話さない。
お互い自分のことは自分でする。

それで成り立つ。

こんな話があります。
義母の介護が終わって、
「やっと今度こそ、夫に離婚を切り出そう」
と思った矢先、夫が入院。
「逃げそこなってしまった」と嘆く女性の話を、
私は何度か聞いたことがあります。

介護は、こちらの都合のいいタイミングで
始まってはくれません。
どちらが病気になっても、状況は変わります。

夫が倒れたとき、
病院へ連れて行くのか。
入院手続きをするのか。
退院後の世話をするのか。
認知症になったらどうするのか。

そして逆に、
自分が先に倒れたら、夫に頼れますか。
こちらも大切です。

家庭内別居を続けるなら、
「元気な今」だけではなく、
どちらかが弱ったときの暮らしまで、
一度想像しておいたほうがいいと思います。

夫婦の愛情があるかどうかだけではなく、
生活の現実としてです。

相談者さんは、
「自分らしく穏やかに暮らしたい」と書いています。

私は、その言葉が一番大切だと思います。
夫を許す必要はありません。
不倫だったのかどうかを、夫に認めさせる必要もありません。
相手の女性とのことを考え続ける必要もありません。

そこに時間を使えば使うほど、夫の問題が、
相談者さんの人生の中心になっていきます。

これから必要なのは、
夫をどうするかだけではなく、
私は、残りの人生をどう暮らしたいか
という問いです。

60代。
まだ先は長いかもしれません。
もしかしたら、短い場合もあるかもしれません。

離婚してもしなくても、
家庭内別居を続けても、
途中で考えが変わってもいい。

ただ、怖い思いをしながら暮らすことだけは、
「仕方がない」と思わないでください。

穏やかな暮らしとは、
夫が静かになることではなく、
夫の機嫌に左右されず、
自分の生活を自分で選べること
だと思います。

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9/12 (土)〜15(火)
 『毒親対応 インナーマザーに気づく5つの習慣』

 

毒親対応シリーズ第4巻、
『毒親対応 インナーマザーに気づく5つの習慣:
離れても残る「母の声」――不安・完璧主義・承認欲求の正体』


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9月12日 (土)16:00〜9月15日(火) 15:59

 

Kindle版を無料でお読みいただけます。

 


この本のテーマは、
離れても残る「母の声」

母とはもう何年も会っていない。
必要な連絡だけにしている。


それでも、
母からの着信を見るだけで身体が固まる。
母と似た言い方をする人に、強く反応する。
義母や上司のひと言が、なぜかいつまでも頭から離れない。

そんなことがありませんか?
 

心理学では、親から受け取った言葉・態度・価値観が内側に残り、現在の反応や自己評価に影響を与えることを「内在化された親の声(internalized parent)」と呼ぶことがあります。 本書で扱う「インナーマザー」は、この概念に近いものです。ただし、学術用語として固定された言葉ではありません。

そのうえで、本書では、母から受け取った言葉・態度・価値観が自分の声と混ざり、内側で働き続けるものを「インナーマザー」と呼びます。
 

「現実の母親と距離を取ること」と、
「心の中に残る母の影響から距離を取ること」は別です。
 

「ちゃんとしなさい」
「人に迷惑をかけてはいけません」
「もっと頑張りなさい」

何度も聞いてきた言葉。
母の表情。
反応。
価値観。
そして、母自身が背負っていた役割。
 

それらが、いつの間にか自分の声と混ざって、
“内側の母”として働き続けることがあるのです。
 

「これは、本当に今の私の声?」
と、自分自身に問いかけてみること。

そこから変化が始まります。


たとえば、
「私は神経質」
「私は心配性」
「私は人に気を遣いすぎる」

そう思っていたものが、
もしかすると生まれつきの性格ではなく、
長いあいだ環境に合わせて身につけた反応かもしれません。


もしそうなら、
「今も、この反応は必要?」
と問い直すことができます。

 

また、母から離れたあと、
なぜか義母や上司、同僚に強く反応することもあります。

その人が本当に困った相手なのか。
それとも、どこか母に似たところがあるのか。
あるいは、その両方なのか。

本書では、「事実・解釈・過去」を分けて考える方法も紹介しています。

 

第4巻のゴールは、すぐに自分を変えることではありません。

まず、「あ、今、母の声が出ている」と気づくこと。

今日は気づいただけ。
それでもいい。
それでも、気づかなかった頃とは、もう違います。

 

巻末には、
「心の中の『母の声』に気づいてみるチェックシート」も入れました。

「ちゃんとしなきゃ」がよく浮かぶ。
誰かが不機嫌だと、「私が何かした?」と思う。
休んでいると、何かしなければならない気がする。
母と離れていても、似たタイプの人に強く反応する。

そんな日常の反応を、自分で確認できる内容です。

 

どんな場面で、昔からの声が出てきやすいのか。
それを知るためのチェックです。

第1巻では罪悪感。
第2巻では疲労感。
第3巻では不安。
そして第4巻では、その奥に残っている「母の声」を見ていきます。

 

「もう大丈夫だと思っていたのに」
そんなふうに感じたことがある方に。

今だからこそ見えてきたものを、
少し立ち止まって観察しませんか。

 

この機会に、必要な方に届けばうれしいです。

<目次>
 

はじめに

第1章 もう離れたのに、なぜ反応するの?

1 現実の母と「心の中の母」は別もの

2 声・メール・匂い――身体が先に覚えている

3 親が亡くなっても終わらないことがある

4 後戻りではなく、次の層が見えてきた

5 「なぜ今?」と責めずに観察する

第2章 インナーマザーは、どんな声?

1 言葉として残った声

2 言葉にならないルール

3 母の姿から学んだこと

4 家族文化としての声

5 「昔の声」と「今の私の声」を書き分ける

第3章 不安・完璧主義・承認欲求の奥を見る

1 細かいことに気づきすぎる

2 「私がやらなきゃ」が止まらない

3 褒められても安心できない承認欲求

4 人の機嫌を読む力

5 性格ではなく「身につけた反応」かもしれない

第4章 別の人に「母」を重ねていないか

1 義母・上司・同僚に強く反応する理由

2 同じタイプを何度も選んでしまう心理

3 投影か、実際に困った相手か

4 「事実・解釈・過去」を分ける

5 今の相手と過去の母を分ける

第5章 インナーマザーに気づく習慣をつくる

1 反応した瞬間を入口にする

2 頭の中の言葉に名前をつける

3 「母ならどう言う?」と「私はどう思う?」を分ける

4 気づくだけで、すぐ変えなくていい

5 次の一歩 「母のルール」をほどくために

おわりに

関連書籍のご案内

著者プロフィール

 

 

 

 

 

毒親対応シリーズ完成しました。
第4巻・第5巻・第6巻を発売しました。

これで、全6冊がそろいました。

最初は、第1巻は
『毒親対応「罪悪感」を減らす5つの習慣』
Amazon.co.jp: 毒親対応「罪悪感」を減らす5つの習慣 : ほどよい距離でシンプルライフ 毒親対応シリーズ eBook : 守帰 朋子: 本


多くの方に読んでいただき、
「ぜひシリーズにしてほしい」という声に励まされ、
少しずつテーマを分けながら書いてきました。

 

9月は「敬老の日」があります。

9月21日は「認知症の日」、9月は「認知症月間」です。

「高齢の親を支えること」と「自分の人生を差し出すこと」は違います。
「ほどよい距離」を見つけましょう。


第1巻から第3巻では、

・罪悪感
・疲労感
・不安

親との関係の中で起こる、しんどさを中心に扱っています。

そして、第4巻からは、少しずつ視線を自分の内側へ向けました。

 

第4巻は、『毒親対応 インナーマザーに気づく5つの習慣』

Amazon.co.jp: 毒親対応 インナーマザーに気づく5つの習慣 : 離れても残る「母の声」――不安・完璧主義・承認欲求の正体 毒親対応シリーズ eBook : 守帰 朋子: Kindleストア

 



親と離れていても、親が亡くなっていても、

「ちゃんとしなきゃ」

「もっと頑張らなきゃ」

「こんなことをしたら、どう思われる?」

と、昔の声が心の中によみがえることがあります。


第4巻では、「これは、本当に今の私の声?」と立ち止まり、心の中に残る母の声と、今の自分の気持ちを少しずつ見分けていきます。

巻末には、「心の中の『母の声』に気づいてみるチェックシート」も入れました。

第4巻で「声」に気づき、
第5巻で「役割」に気づき、
第6巻で「私はどうしたい?」へ進む。

後半3冊は、そんな流れになっています。

 

第5巻は、『毒親対応 「母の声」に縛られない5つの習慣』

Amazon.co.jp: 毒親対応 母の声に縛られない5つの習慣: “ちゃんとしなきゃ” “私がやらなきゃ”から自由になる 毒親対応シリーズ eBook : 守帰 朋子: Kindleストア

 


「私がやらなきゃ」

「ちゃんとしなきゃ」

「これくらいできて当然」

そんな言葉が、いつも頭の中にありませんか。

家族の中で、

しっかりする人。

世話をする人。

空気を読む人。

頼られる人。

として過ごしてきた人は、大人になってからも、その役割を続けることがあります。

職場では、できるから仕事が集まる。

家では、気づくから自分がやる。

介護では、施設や医師との連絡が自分に集まり、家族のキーパーソンになる。

そして、疲れていても断れない。

この本では、

「できる人」でいることをやめるのではなく、できる力を、いつ、どこで、どれくらい使うかを自分で選ぶ

ことを考えます。

巻末には、

「今も続いている役割チェックシート」

も入れました。

第6巻は、『毒親対応 自分の声を育てる5つの習慣』

Amazon.co.jp: 毒親対応 自分の声を育てる5つの習慣: 母の基準から離れて、 自分の選択を取り戻す 毒親対応シリーズ eBook : 守帰 朋子: Kindleストア
 

 

「あなたは、どうしたい?」

そう聞かれると、答えに困る。

人の気持ちはわかるのに、

自分の気持ちは、よくわからない。

そんな方に向けた一冊です。

自分の希望を考える前に、考えてしまう。

「迷惑ではないか」

「普通はどうするのか」

「周りはどう思うのか」

 

自分で決めたはずなのに、先生や上司、専門家などの意見を聞くと、すぐに自分の考えを引っ込めてしまう。

親の介護をきっかけに、昔のきょうだい関係に戻ってしまう。

そんなこともあります。


第6巻では、

人に頼りながらも、自分の人生の舵は自分で持つ

ことをテーマにしました。

人に相談していい。

助けてもらっていい。

迷ってもいい。

選び直してもいい。

でも、「私は、どうしたい?」という問いまで、誰かに預けなくていい。

巻末には、

「自分の声が聞こえにくくなっていないか」

「人に頼るとき、舵を渡していないか」

を確認するチェックシートと、「私の舵取りシート」も入れています。

6冊を書き終えて

親との問題は、

一度理解したら、全部終わる。

そういうものではないと思います。

「もう解決した」と思っていたことが、

結婚。

仕事。

義家族との関係。

親の介護。

きょうだいとの再会。

病気。

老い。

人生の別の場面で、また顔を出すことがあります。

モグラたたきのようだと思うこともあります。


でも、それは、何も変わっていなかったということではありません。

年齢を重ねたからこそ、見えることもあるのです。

親の影響。

家庭の雰囲気。

育った時代。

学校や職場。

社会の価値観。

いろいろなものが、自分の中に重なっています。

そのたびに、「これは、本当に今の私の考え?」と立ち止まる。

そして、「私は、どうしたい?」と聞き直す。

それでいいのだと思います。

シリーズ完成記念で、第1巻を99円にします

今回、6冊すべて完成したことを記念して、

月曜日から9月30日まで、第1巻を770円から99円にします。

第1巻は、『毒親対応「罪悪感」を減らす5つの習慣』
 

シリーズを初めて知った方にも、まずは入口として手に取っていただきやすい価格にしました。

 

親が高齢になるほど、

「どこまで手伝うのか」

「誰が担うのか」

「施設を選ぶのか」

「在宅で支えるのか」

「きょうだいでどう分担するのか」

など、家族の距離や役割を考える場面は増えていきます。

「母を施設に入れるなんて冷たい」

「もう在宅介護は限界」

そのどちらも、現代を生きる家族の正直な声です。

だからこそ、この9月に、

親との“ほどよい距離”について考えるきっかけとして、第1巻を読んでいただけたら

と思っています。

 

1冊ずつ読んでもいい。

気になるテーマから読んでもいい。

順番に読んでいただくと、

親との関係から始まって、

最後は、

「自分はどう生きたいか」

というところへつながっていきます。

「知ってる」と「行動する」は別のこと。
新しい習慣づくりのお役に立てば、うれしいです。

シリーズ完成まで読んでくださった方。

新しく見つけてくださった方。

本当にありがとうございます。

これからも、

必要な一冊が、必要な方に届けばうれしいです。
 

第1巻99円セール
9月7日(月)~9月30日(水)予定

※価格変更がAmazonに反映されるまで、少し時間がかかる場合があります。

「痛い」と言えることも、教育なのだと思う

 

昨日の朝ドラ「風、薫る」を見ていて、40年ほど前の出来事を思い出しました。

まだ看護婦という仕事への理解が十分ではない時代。
看護婦がケガをした兵士に話しかけると、
上官が睨んでいる。

軍隊では、上官の命令に従うことが優先される。
弱音を吐かない。
「痛い」と言わない。
看護婦に話しかけられるだけで、周囲から冷やかされる。

その兵士は悪寒が何日も続いているのに、
それを言わずに我慢していた。
そして、医師の診察を受ける機会を失っていた。
 

「我慢すること」が立派だとされる環境では、
身体からのSOSまで言えなくなってしまう。

その場面を見ながら、ふと思い出したのです。

40年ほど前に出会った2歳の子どものことを。

当時、引っ越したばかりで、ご近所づきあいも
ほとんどありませんでした。

ある日、英会話を教えていた生徒さんのお母さまから、
お茶会に招かれました。

何人かの女性が集まっていました。
その中に、2歳くらいのお子さんを連れた方がいました。

話題になったのは、その子の「お行儀のよさ」でした。
いつもニコニコしている。
ぐずらない。
勉強会に連れてきても、おとなしく座っている。

みなさんが、
「本当にいい子ね」
「よくしつけられているわね」と褒めていました。

その子の足の包帯から、
足を化膿させて病院に行ったという話になりました。
医師からは、
「相当痛かったでしょうに、我慢していたんでしょうね」
と言われたようです。

それを聞いて、周りの人たちはまた、
「我慢強いのね」と感心していました。
母親は、誇らしげに見えました。

2歳の子どもです。
足が化膿するほど痛いのに、泣かない。
お母さんに「痛い」と訴えない。

それを「お行儀がいい」「我慢強い」と褒める。
それって、褒めることなんだろうか?
誇らしく思うことなんだろうか?
私は強い違和感を覚えました。

「我慢できる子」が、いい子なのか

もちろん、泣かない子もいます。
痛みの感じ方も、表現の仕方も、人それぞれです。

だから、泣かなかったことだけで、
その親子関係について何かを決めつけることはできません。

それでも私は、その場にあった空気が気になりました。
 

痛いことを我慢できた子どもを、大人たちがそろって褒めていたこと。

子どもは、大人の反応をよく見ています。

泣いたら困った顔をされる。
弱音を吐くより、笑っているほうが褒められる。
我慢すると「いい子」と言われる。
お母さんが、うれしそうな顔をしている。

そんな経験が積み重なれば、
「つらいと言わないほうがいい」
「痛くても我慢するのが正しい」と学んでしまうこともあるでしょう。

教育というと、文字を教えること、知識を教えること、礼儀を教えることを思い浮かべます。
 

でも、「痛いときは、痛いと言っていい」
「助けてほしいときは、助けてと言っていい」

と伝えることも、大切な教育だと思います。

我慢を美徳にする怖さ

朝ドラの軍隊の場面と、40年前に見た2歳の子。
同じ種類の話というつもりはありません。

けれど、私の記憶の引き出しが、
「パーン!」と開いたのです。

 

軍隊では、「弱音を吐かない」ことが求められる。
家庭や集団の中でも、ときに「我慢できる人」が高く評価る。

さらに、強い価値観で結ばれた集団では、
「これくらい我慢するのが当たり前」
「弱音を吐くのはよくない」
という空気が生まれることがあります。

私は当時、そのお茶会を通して、
宗教を含め、ひとつの価値観が強く共有される集団の怖さについても考えました。
怖いのは、信仰そのものではありません。


「我慢することが正しい」という価値観が、
誰からも疑われなくなること
です。

周囲がみんな「素晴らしい」と言っていると、
自分が感じた違和感のほうが間違っているように思えてしまいます。


でも、痛いものは痛い。
苦しいものは苦しい。

その感覚まで、周囲の価値観に合わせる必要はないはずです。


あのとき2歳だった子どもは、今はもう40代。
その後、どんな人生を歩んだのか、私は知りません。

ただ、ときどき思います。

あれから、あの子は、痛いときに「痛い」と言えただろうか。
つらいときに「つらい」と言えただろうか。
「もう無理」と言えないで、限界まで我慢してたのではないか。


40年前に一度会っただけの2歳の子ども。
それでも、朝ドラの一場面から、その小さな姿を思い出しました。

我慢できることを教えるだけではなく、
我慢しなくていいときもあることを教える。

それもまた、大人から子どもへ渡していく、
大切な教育なのだと思います。

お盆は来客があり、その分、仕事も少し遅れ気味。

そんなこんなで、気づくのが遅くなってしまったのですが、
先日、佐藤ゆうさんがnoteの記事を書いてくださいました。
佐藤ゆうさん、ありがとうございました。
プロンプトなんてクソ喰らえ!No More Prompts!第三八〇回:悲劇は喜劇なのかよ吉本新喜劇テーマ,原題はSomebody Stole My Galじゃんかよ野呂佳代|佐藤ゆう

私のnote記事—吉本新喜劇のテーマは失恋の歌――笑いに上書きされる曲|tokoさん

 

「私も前から気になっていた曲があります。😱
"You Are My Sunshine"
失恋の歌なのに明るい愛の歌として、
BGMで流れるシーンが何度かありました。
チェックしないんでしょうね。 モヤモヤします。」

そんな私のコメントから、
佐藤さんの連想はどんどん広がっていきました。

 

たとえば、吉本新喜劇の、あの有名なテーマ曲。
「ぷんわかぱっぱ♪」
「あ、新喜劇が始まる!」
と、反射的に楽しい気分になる曲。

 

ところが原題は、
“Somebody Stole My Gal”

直訳すれば、
「誰かが僕の彼女を奪った」

えっ、失恋の歌?

喜劇じゃなくて、悲劇じゃないですか。

佐藤さんの記事では、
そこからペレス・プラードの“Taboo”、
さらに“Tennessee Waltz”へと話が転がっていきます。

100年前の失恋の歌が「笑いのテーマ曲」に

少し調べてみると、これがまた面白い。

“Somebody Stole My Gal” が作られたのは、なんと1918年

のちに多くの楽団に演奏され、
日本では吉本新喜劇のテーマとして知られるようになりました。

1918年の失恋の歌が、100年以上たった日本では、
「ぷんわかぱっぱ♪」と聞いただけで笑いを予感させる。
曲にしてみれば、ずいぶん遠いところまで旅をしたものです。

“You Are My Sunshine” も1930年代末から1940年ごろに広まりました。

そして“Tennessee Waltz” は1940年代の曲。
美しいワルツですが、歌われているのは、
恋人を友人に紹介したところ、恋人を奪われてしまったという話。

こうして並べてみると、
1918年 Somebody Stole My Gal
1939~40年ごろ You Are My Sunshine
1940年代 Tennessee Waltz

どれも、ずいぶん昔の曲。

海を渡り、時代を越え、
テレビや映画、CM、バラエティ番組など
別の場面に使われ、そのうちに、
原曲とは違うイメージをまとっていくのです。

ペレス・プラードの“Taboo”も、
ある世代の日本人なら、曲名より先に、
「ちょっとだけよ~」が浮かんでしまうかもしれません。
一度ついたイメージは、強いものです。

最初に出会った「場面」が、意味になる

佐藤さんの記事を読んで笑いながら、ふと考えました。

私たちは「本当の意味」を知って物事を覚えているわけではない。
最初に、どんな場面で出会ったかで覚えているのではないか。

吉本新喜劇を先に知った人にとって、
“Somebody Stole My Gal” は喜劇の曲。

「ちょっとだけよ」を先に知った人にとって、
“Taboo” は加藤茶さんの曲。

そして “You Are My Sunshine” も、
明るい場面で何度も聞けば、「幸せな愛の歌」になってしまう。

ここまで来ると、これは音楽だけの話ではありません。

最初に聞いた話。
最初に見た場面。
最初に誰かから教えられた意味。

それが、いつの間にか自分の中で
「そういうもの」として定着してしまう。

あとから、「実は違うんですよ」と言われても、
「へえ。でも、それが何か?」
くらいのものかもしれません。

 

吉本新喜劇の曲が失恋の歌だと知ったからといって、
これからあの曲を聞くたびに悲しくなる人は、
たぶん少ないでしょう。

もう私たちの中では、「吉本新喜劇の曲」という、
新しい意味を持っているからです。

「誤解が広がった」と言ってしまえば、それまでです。

でも、文化の中では、最初の意味とは別の意味が生まれ、
そのほうが強く残ることがあります。

フェイクニュースほど大きな話ではない。

けれど、最初についたイメージや最初に聞いた説明が、
その後の受け取り方を決めてしまうことは、
案外多いのではないでしょうか。

 

人についての記憶や家族の昔話にも、同じことが起きます。

お盆に親戚と久しぶりに会って、
「えっ、そんなことがあったの?」
「私が聞いていた話と違う」と驚いた方もいるかもしれません。

同じ出来事でも、誰から聞いたかによって話は違います。
語った人にとっては、それが真実。

 

聞いた人も、長いあいだ、その話を自分の中の「事実」として持ち続ける。

何十年もたってから、別の人の口から違う話を聞くことだってあります。
誰かが意図的に嘘をついたわけではないとしても、
最初に聞いた話が、その人にとっての真実になってしまうのです。

そんなことは、私たちの日常のあちこちにありそうです。

 

佐藤さんの記事を読みながら、
深い考察だなと思いました。

100年以上前に誰かが恋人を奪われて嘆いていた歌を聞きながら、
今日も大阪のどこかでは笑い声が起きる。

それもまた、歌が長く生き続けてきた証なのかもしれません。