亀戸の菩提寺で、祖父の葬儀が行われた時、誰もが疑問に思うことがあった。

葬儀が、派手過ぎる…

お寺との交渉や告別式の運営は、本家の伯父が取りまとめた。葬式自体は、ばあちゃんが業者と契約して行った。そこが、問題になった。

冠婚葬祭は、基本料金にプラスαしていくのが普通だ。仕出し弁当とかハイヤーとか、加算して全体の代金をどうするか。時間に追われている時に、その辺冷静になれる人は、なかなかいない。さらに、残念な現実があった。お祖母さんが思っているほど、お香典が回収できなかった。そりゃだって、86歳のじいちゃんの同期はかなり旅立っていたし、もう現役社員に知名度もない。「あの人にも、この人にも、ずいぶん世話をしてあげたのに!」と、祖母は怒り、失望し、気力を失っていった。長い介護の始まりだった。

母の生みの親を死に追いやったのも、葬式だった。その年、曾祖父と曾祖母が相次いで亡くなった。昔のことなんで、自宅から葬式を出す。賄いとか、大変な騒ぎだ。祖父は、散々浮気した曾祖父にも、元田中夫人の曾祖母にも、思い入れをもてなかったらしい(当然だ)。親の介護と子どもの育児が重なり、ある日祖母は倒れ、もう手遅れでそのまま。末っ子の叔父が裏のどぶで溺れていたのに、誰も気付かなかったほど慌てふためいたと。36歳は若いよ。でも、全部背負って、疲れきってしまった。14歳を頭に5人の子を残して。昭和16年。

祖父はやけっぱちになり、満州の支局長を請けて単身渡った。空襲が激しくなり5人兄弟は千葉の祖母の実家に疎開したが、空襲や飢えはあまり変わらなかった。報道機関に所属し、聞きたくない事実まで耳に入る職場にいた祖父は、どうせなら家族一緒に最期をと子どもたちを満州に呼んだ。終戦。責任者としてシベリアに抑留された祖父と離れ、母たちは5人揃って帰国した。祖父の部下の人たちが、大切に守ってくれたらしい。帰って来れなかった人もいたんだから、なによりだよ。

「なにがイヤって、帰国したら弟と同じ学年にされたのよ。あんな屈辱はなかったわ!」
お母さん、それは生きていたから言えることですよ…

再婚せずに、どうやって5人の子どもを育て上げたのか。じいちゃんは仕事人間だし、新聞記者は多忙な職業だ。戦後は誰だって、大変な目に遭ったんだろう。祖母の実家や、田中のおばさんや、ご近所さんに助けられ、なんとか生き延びた。

…てな話は、現在の祖母の前ではタブーだった。若く美しいままはかなく逝った妻を、祖父はどうしても忘れられなかった。情の熱い、よい人だが、それの伴侶となると…見えない人と戦うみたいなもんだ。祖母の怒りは、いつもそんな風に周囲にぶつけられた。祖父は黙って、酒を飲んだ。

「女がそんなに飲むのは、感心しない」
男女差別のあまりない祖父が、真面目な顔で言った(真面目ってたって、飲んだくれてるんだぜ)
「…なんでさ」
「女が飲み過ぎると、助平になる」
開いた口が、ふさがらない。じゃあ、男はスケベにならないのか?飲むとエッチになる奴はごまんと知ってるよ!
「とにかく、女はあまり飲むな」
は~いと、おかわりした。じいちゃんはいつも日本酒。つまみはナッツやハムやチーズ。いつもの安楽椅子で、黙って相撲中継を観ていた。あと、職業柄報道番組ばっかり。ごきげんになると、カチューシャの唄を調子っぱずれでがなる。お銚子を振って「お、おい、も~いっぱいっ」と、愛想を振りまいた。可愛いけれど、今日は店じまい。「みんな、ありがとう、ありがとう、だから、もういっぱい☆」

本当はこの人、酒弱かったんじゃないかな。すぐベロベロになっていたし…とてつもなく内気でシャイで、いっぱいひっかけないと話が出来ない。飲んだら飲んだで、ワケわかんなくなっちゃうんだけど。

父が仕事で留守が多く、私は祖父の書斎に潜り込んだ。ごきげんでも、しかめっ面でも、私はあの人が好きだった。

「でも、忘れちゃうよ。あんた若いんだもん、先になったら、そんなに思い出さなくなるよ」焼き場で泣いていたら、母が言った。確かに、そのうち忙しくなり、泣かなくはなった。でも、今でも忘れない、しょうもない呑兵衛で、頑固ジジイだったことを。それは、葬儀が済んだから終わり、ではなかった。