昔話ばかりで、退屈でしょうが、もう少しおつきあいいただきたい。

祖父の葬儀は、やはり雨だった。伯父の会社の方々が取り仕切ってくださった。やはりある程度規模の大きな会社ってのは、こういう時頼りになるなぁ、と感心した。就職してから、その恩返しをすることになる(伯父の会社じゃないよ)

伯父は脳卒中の後遺症で、半身が不自由になっていた。移動の補助のため、いとこは大学合格後すぐに運転免許をとり、伯父の運転手として活躍。父が脳卒中を患った後、あっさり結婚し実家を離れた私を、母はいとこを引き合いになじった。ほらね、よく出来たいとこをもつと、悩みも増えるのよ。

自閉症のいとこの方は、相変わらず奇声をあげたりしていた。祖母は恥に思っていたらしいが、わたしらは頓着しなかった。それにしたって、障害児を残して逝った叔父が、もし(当人しか分からないんだけど)自殺だったら。親として悩んだのは分かるけど(当事者として!)遺された奥さんに謝ってほしいね、なんらかの形で。

祖父は1904年12月08日に、浅草で生まれた。このブログのタイトルを最初「1903」にしていたのは、3年生まれと思い込んでいたからで、実は4年でした(テケトウ)昭和3年に大学を卒業した時には、妻子がいたって逸話と、ごっちゃになってた。

浅草に生まれた祖父だが、葛飾で育った。曾祖父が、浅草から遠ざけたのだ。祖父を生んだ人が、正妻ではなかったから。その女性が、なぜ愛人暮らしをすることになったのか、私は知らない。経済的事情もあったろうけど、結局は曾祖父を愛していたんだな。「本当に好きなのはお前だ。待っていてくれ」ってな言葉を、信じたんだろう。信じたかったんだろう。
そんな男女のわりきれなさはともかく、妾宅で育った祖父には何の落ち度もないのに、一向に認知してもらえなかったらしい。本妻に気を遣ったんだろうけど、かわいそうだよな「おめかけさんの子」って引け目もあって。あたしならグレちゃうけど、このじいさんはグレなかった。職人を継がず、大学に進み、新聞記者になった。

大正デモクラシーの頃、曾祖父の本妻が亡くなり(この人も気の毒だよ実際)、祖父の母は晴れて正夫人に昇格した。待てば海路だ。しかし悲しいお知らせです、数年後に死去。せっかく待って待って、一人で息子を育てて日陰の道を歩いて来たのに。結局籍を入れてもらえなかったのよ、この女性。腕のいい職人だったそうだが、ロクなもんじゃないな、ひいじいちゃん!

哀しみにくれる祖父に追い討ちをかけたのは、もちろん曾祖父だ。間髪入れず、新しい奥さんを連れてきた。困った人だねぇ…今度は未亡人で、連れ子がいた。この子の奥さんが、前述・田中のおばさんだ。

「おじいちゃんは一人っ子だって、聞いていたけど」
「そうだよ。その時の連れ子が、血のつながらない弟で、田中さんだ」
どうりで、親戚に田中っていたかな?とは、思っていたんだ。
「じゃあ、その義理の弟さんは、じいちゃんの籍には入らず、田中家を継いだんだ」
「戦死しちゃったけどね。このおばさんには、本当に世話になってさ。自分だってダンナに死なれて、一人娘を抱えて大変だったろうに。あたしら5人兄弟がみなしご状態だったからって、親身になってくれて。だって、赤の他人なんだよ」
「夫すら、血縁がないんだもんね」

女癖の悪い父親に反発したのか、学問に進んだ祖父。夏休みに級友の実家に遊びに行き、友だちの妹に一目惚れした。どうしても!と、すぐ結婚したらしい。しかしこの祖母は、36歳の若さで病死。以降、一生を愛妻亡妻への思慕で生き抜いた祖父だった。

えっ?再婚したおばあちゃんは?!

…そこが、問題なんだよね。

祖父の決め台詞「恋愛しろよ~レンアイはいいぞぅ~」

恋愛によって、苦しんだようにしか見えないんだけど。ま、いっか。それが、私の祖父だった。