今年、義父が亡くなった折、私ら子世代は慌てふためいたが、孫世代もなかなか「使えない連中だな!」とイラついたりしました。しかし考えてみりゃあ、自分だってじいちゃんの葬儀の時は、もう…そゆ、反省をこめて振り返ります。


86歳だった祖父は、いよいよ歩けなくなり、死の一週間前に駅前の総合病院に入院した。どう見ても老衰だったが、やたら心臓が丈夫で、苦しそうだが仕方ない状態だった。ここまできても、見舞うと「おい、酒を一杯くれ」とか戯言なアル中じいさんなので、こりゃ当分この調子と思い込んでいた。夜中に痰が喉につまり、窒息死した。苦しかったろうなぁ。

母はいったん帰宅し、プリプリ怒りながら遅い食事を摂った。社長命令で、祖父の書斎の掃除をした。そうこうしているうちに、母の兄弟たちが集結した。

母の長姉は千葉のマンションにいたが、いとこは尼崎の自宅にいたので、まだ着いてなかった。都内に住む次姉夫妻、葛飾の伯父と運転手(伯父の息子でわたしのいとこ)。本棚に囲まれた祖父の趣味部屋は、すでにいっぱいの人員だった。

葬儀の段取りは祖母が決めた。出資者だから、誰も口を挟まなかった。菩提寺との連絡は母の兄が本家なので、祖母と刷り合わすらしかった。遺体は直接寺に運ぶとか、焼き場はどこだとか、みな淡々と話を進めていた。

「…あのう、こんな時に難ですが…」

私は、おずおずと大人たちに向かった。

「今日、部活の大会で…インカレなんで、他の大学の人も関わっていて、抜けると迷惑になっちゃうんです。それで…」

ああ、聞いてる聞いてる、そういうことなら行ってきな、と異口同音に言ってもらった。さすが社長の兄弟、その辺はさっぱりしたもんだ。そもそも、葬式の戦力としてあまり当てにされていなかった節もある。気が利かない、どんくさい子だからな(おっとりとして泰然としているとも、言われた。物は言い様だ)

その日の大会のメンバーには、祖父が入院してヤバめとは言ってあったし、朝一で電話してリハーサルは欠席と伝えてあった。誰が何と言おうと、本番には参加するつもりでいたが、誰も何とも言いやしなかったのは、ありがたい。これも故人となった祖父が、完全自由主義で子育てを敢行したおかげだ(放任とも言う)

「お祖母さんがあれこれケチつける前に、とっとと行っちまいな」こっそり、母に耳打ちされた。
「…昨日だけ、病院に見舞いに行かなかったのが心残りでさ。今日、本番だったから」
「そんだけ紺を積めてやってきたのに、投げ出したらじいちゃんに怒られるよ。供養だと思って、精一杯やってこい。ただし…」
「……分かってます、打ち上げには出ません」
「絶対に、飲まずに帰ってきなさい」
あの大酒飲みの娘に生まれたのに、一滴もやらず、ウィスキーボンボンにすら負ける母は、私の飲みにうるさかった。当然だよな。いくら高齢で入院中とはいえ、やっぱり突然のこと過ぎて、みんな慌てふためいている。

荷物をひっつかんで、こっそり駅に向かった。久しぶりの大会に、こんな心乱れた状態で取り組むとは…車窓がにじむのは、天気が悪いから。半年ぶりの大会。半年前は、指の病気で、全然まるでちっとも役に立たずに終わった(「静か過ぎる街」)。あれから、半年。体は治ったし、進級して後輩も増え、ますますタフネスを要求されている。授業にバイト等々。でも…

私の大切なおじいちゃんが居る病院から、どんどん電車は離れ、華やかな大会会場に私を運ぶ。どうして?

いつもの電車は、いつものように運行した。遠ざかって、いく。