生家のキリスト教信仰へ、戻ることを決めた私。決めたという表現も、あまり正確じゃないです。うまれたときからみんなクリスチャンで、みんなすげー、こんなに信心深くないダメな自分に劣等感。そう、思い続けて来たから。

さて、戻るったって、ろくに信仰してこなかったんだから、なにをどうしたらいいのか。関西に住んで二十年、スーパーや病院はどこにかかればよいのか、分かっているけど…いま住んでいる地域は人口数十万人のそこそこな地方都市。だから、教会も各会派あって、どうすりゃいいのか困った。

そこで、子どもたちが通っていた幼稚園の教会に、取りあえず通うことにしました。

娘がこの園に通っていたのは、十五年程前。ひと昔と半分昔ですから、本当にいろいろなことが変わっていました。いちばんの違いは、当時の牧師先生が天に召されたこと。その時はわたしたち保護者有志で、お花を捧げる手配をした…ような。キリスト教の幼稚園だからって、みんながみんな信者じゃないんだけど。園長先生も代わられ、下の子が通った頃は考え方が変わってしまい、つらかった。発達障害児への理解も浅くて…

卒園して五年、全然足を向けていなかった礼拝室の空気。新しい園長先生。そして、その母上。覚えて下さっていました☆

今の園長先生は、上の子が通っていた頃の園長の、お子さんなんです。いやぁ、変わらない、変わらないですよ先生!子どもや孫は、どんどん成長する。二~三年経つと別人だ。でも、大人はそんなに変わらない。懐かしく、麗しく、再会したことよ。

日曜学校や礼拝に出たことは、ほとんどなくて。日本の多くの家庭が「葬式仏教」で、寺イコール死、みたいになっています。そこがわが家は「葬式キリスト教」みたいな。もちろん、結婚式も教会で挙げるけど、どうしても別れの方が印象に残ります、ことに子どもの時は。

聖書も全然読んだことなくて、概説講義みたいに順番に音読し、色々な解釈を説明しながら、その内容を皆さんの実生活での感動や問題に繋げて話していく。ディスカッションってものです。私は、とにかく小学生が不登校になっていることが、目下最大の問題で、その事を正直に話してみた。

日曜学校の後、子ども礼拝があり、牧師先生による、聖書に触れた説話。畳み掛けるように3曲くらい讃美歌を歌う。もちろん初めて歌う歌ばかりだが、実は私、初見で歌うのわりと得意なんで楽しいです。こういう実生活に役立たない特技のデパートです、あたしゃ。

礼拝の後は、ティータイム。元園長先生のお菓子の味は、昔のまま美味しくて。そのまま、十数年前に戻って、あの人はどうしている、この人とは今も仲良しとか、おしゃべりして。

「お皿出して~」
「机拭いて~」
「残ると困るから、食べて~」

あいっかわらず、人づかいが荒いですよ、元園長先生!!

ま、幼稚園のことなら隅々まで知っているのが、我ながら嬉しいやら、大人になっていないっていうか…

主イエスのみこころにかなうよう、また自分や自分の大切な人々が幸せであるよう、いろいろな用事を無理して集まっている。信仰心の篤さは、出席日数や費やした時間に比例するとは思わないけど、この場に存在し、時空を共有するということ…今の私には、必要なことなんだ。

先週は、ランチをご一緒した。もちろん元園長先生のお手製☆三人のお子さんにそれぞれふたりずつお孫さんが生まれ、あの頃にもましてパワフルなおばあちゃんでおられる。元園長先生・高校の恩師・大学の師匠そして私の義母、私の社長(母)。子どもの頃戦争でひどい目に遭い、新しい時代に新しい使命を胸に生きてこられた、人生の先輩たち。

私は、LGBTなんてややこしい性質だ。愛するアスペルガー三人衆は、いつも悩みの種。なにも取り柄がなく、あちこちで部活やってるけど、どこに行くのか自分でも分からない。

もしかしたら、みこころにかない、主に救いを求めてもいいのかな。ここで、懐かしい大切な人々とのこころの交わりの中で、私に平安がもたらされるのだろうか。

「これ、持っていて!あ、調理場に入る時は、こっちに履き替えて。熱いお湯が出るわよ、気をつけて!」

…本当に、人づかいが……

私の日曜日は、そんな調子で満ち足りてまいりました。