アメーバブログは、なんらかのプロパガンダを発する場ではない。自分の意見や思想を押しつけるのは、もっと別の場所で行うものだ。もちろん、私自身、押しつけ・強制・無理強いは大キライ。ただ黙って「はい、はい」って言ってりゃ無難にすむことに、いちいち逆らって、他の人から見たらバカみたいなトラブルを抱えてきた。


その理由のひとつは、このブログのメインテーマでもある、LGBTである。生まれつき、性別への問題を抱え続けることの難しさ、でも生きていくことの意味を、自覚したい。当事者や社会全体に、よい影響になれば嬉しい(反面教師としてでもね)

もうひとつは、私がキリスト教徒の子どもとして生まれたことだ。正確には父の実家、祖父母と父のきょうだいが信者。父も、親の考えにより、生まれた瞬間から信徒となった。

これは推測に過ぎないのだが、戦争中に敵国の宗教の信者であったことは、少年の父に辛い思いをたくさん負わせた。そのためにだろう…私も弟も、キリスト教徒としてのなんとか等は、いっさい父から受けていない。母の実家は仏教徒だが、仏壇も位牌もない、あきれるほどスッキリした無信心ぶり。多くの日本人がそうであるように、新年は神社仏閣に参り、クリスマスにはツリーを飾りケーキを食べた。

でも…たぶんそこが、ほんのささいなことだが、少し違った。葬式が。死は穢れではなく、神の御元に召された儀式であった。悲しいし、やるせない。なんと言われても、故人が生きている世界に戻って来ないことは、悔しい。その何度かの親しい人を、私は…私たち家族は、歌と祈りで見送った。

結婚式も大切だ。でも、もっと大切なことは。一番は、遺族が楽なことだ。だって本人はもう、死んじゃっているんだもん。それはそうだ、当たり前だということを踏まえて、私は。義父の葬儀を終えて私は、プロテスタント式で送ってほしい。本心からそう願っていることに、気づいた。

生まれた時からキリスト教徒である気持ちを、どう表せば皆さんに伝えられるのか。私は伝道師ではない。私は、選んでも、選ばれてもいない。いつかこの日が来ることは、分かっていた。親や周囲に守られて、大切に育ててもらって、戦乱のない場所に生きてこれたことに、感謝してきた。ただ、その曖昧な感謝の対象が、はっきりと神という存在にゆだねられた。これまでもそうだったことを、いまになってやっと認めた。それだけのことなんだ。

世界中に起こる争乱の多くに、キリスト教徒を名乗る人々、キリスト教を国教とする国々が関わっている。そのために、私の伴侶はキリスト教こそが諸悪の根源であると断じる。そのことに、私は異論を呈することができない。ある程度は、事実だからだ。そんな現実も、信仰への素直な気持ちを持てなかった理由だ。夫婦は同じ考えでいるべきだ、という抑制も働いた。

私は、これまでの人生の大抵の重大事を毎度おなじみ「それって、ちょっと面白いかも…」で決めてきちゃった。後悔はないです。自分の本能的な方向には、けっこう自信があるし、なにぶん自分で決めたことには責任ありますから。

ただ、このことは面白半分や思いつきではない。人知を超えたことは、神にゆだねてもいいかな、とやっとたどり着いただけです。もしも…

もしも、主が私をみちびいてくださるのを、おゆるしくださるのなら

…少なくとも、アルコールにゆだねるよりは、ずっとマシだと思うんだ。


さぁ皆さん、ここは布教のブログじゃない。でも、こうなった以上、こういう調子でいきます。恨みっこなしで、興味があれば読んでください。信仰への苦情や批判は、いっさい受け付けないからね~