まいど。帰省から帰宅しました。二十年以上何度も帰っている婚家ですが、やっぱりなれたようでなれていません。義母にとっても私にとっても、それは仕方ないんです。生活圏が違うのは、区別や差別ではなく、事実なんです。だから、非日常だし、そのたびに調子が変わるのも仕方ない。

高校・大学への進学、就職でも実家から通った私にとって、結婚による転居は大事件だった。と、思う。なんとなく他人事なのは、二十年も前で忘れたのか、忘れてしまいたかったのか、単に私が離人症だからなのか。ここは精神分析の部屋ではないから、こんくらいでひとつ。

相方のバカ再婚発言の現場に戻り、心的外傷に、けっこうコテンパンにやられた私。今後、何らかの調停が必要な場合に頼みにしたいと、その場にいた(葬式には出たけど初盆欠席者もいた)人に話をふったら、全員キレイに聞いていませんでした。なんだよ、あまりの暴言に、二の句がつげないだけかとその場の静けさからは感じたのに…。相方の兄弟は麗しいきょうだい愛によって口をつぐんでいたことも、まぁあり得る。義弟の妻には、覚えていて欲しかったんだけどなぁ、他人同士なんだし。でもフラッシュバック大発散大会の翌日には、その伴侶たちは知っていたよ。当たり前か、離婚騒動となれば、とばっちりがかかること間違いない事案なんだから。とりあえず、離婚も別居も予定してません。共有財産の分離なんて、考えただけで気が遠くなる…「別れるときは、まだ少しでも相手への愛が残っている段階が望ましい」ニコニコ離婚相談で、聞いたような。しかし私も親の反対押しきって結婚したクチだから、実家に甘えるのも難しいな~

愛情というものが、愛着や思い出の共有と言われても、またまた書くけどそういう機能が欠落した人と結婚してしまった。自分を紹介するように、伴侶を紹介する。でも当たり前だけど、脳を共有してはいない。生活を共にする間に、相方のアスペルガー症候群を共有し。当たり前にとらえる傾向になってしまったことは認める。そういうところが「ちょっと、面白いかも…」私自身もLGBTだし、これも一種の欠損で、他の障害を併発しているとみなす場合もあるらしい。もしも精神疾患者を排除する政権下なら、我が家四人は真っ先に銃殺刑だろうな~そんな世の中にならないといいな~

あいは どこにあるんだろう

しあわせって どんなかたちをしているんだろう

よく、分からない。アルコールで、頭が完全にダメになっちゃったんだろうか?今回の帰省で、ちょっと飲んだ。あまり美味しいと思わなかった。でもそれは、恋のない生活、伴侶のない生活、こどものいない生活、セックスのない生活と、どう違うんだろう。音楽や美術や文学は、学校でそれなりに勧めるくせに、一所懸命になるとヤバいって引き留められたりする。子どもがいないと責めるくせに、そんなものは隠し通せって言われる。芸術は、大切なものなの?私はあれこれのアートに関わってきたけど、アートがヤバいわけではなく、私自身がヤバくて。ただその時出来る活動を、器用貧乏にやっている。なんでもそつなくこなすけど、どれも大成しない。でもそんなの生きるのに邪魔なアソビだって、散々バカにされてきた。遊び人とアーティストって、誰が線引きするの?

あいがあれば だいじょうぶ

…って、みんな歌うけど、あいって本当はどこにあるの?愛、I、eye 、会い。自分がどこに進みたいのか、決めるのは自分だし、今まで誰の指示も聞いてこなかったから、これからも全然馬耳東風な自己だろう。でもここに来て、齢五十を目前にして、惑いっぱなしだ。見えないものを信じようっていうのは、大変です。

本当に大切なものは、目に見えない

とりあえず強制収容所が(公的には)ない国に生きている限り、フラフラ迷っていこうと思う。これまで以上に、好きに生きていく。