今から十年前、たった10年前なのに、どんな順番で物事が起こったのか、よく分からなくなっている。歳をとったからなのか、いろいろありすぎたからなのか。

配偶者の精神状態がゆっくり、うつ状態に戻りつつあるのを感じながら、わたしはそれを食い止められなかった。下の子の発達障害が判明し、その対応に追われていた。そちらの担当主任業務全うだけで、大変だった。だから、上の子が不登校になり、小学校に通えなくなっても、やはり十分な力を注いだとは言い切れない。出来るだけのことはしたつもり…で、自分はいたけれど。

不登校で終日引きこもる長子の心の安定のため、末子を早めに幼稚園に入れた。が、発達がゆっくりなために、毎日担任から苦情の嵐と呼び出しの説教。発達障害の子どもを受け入れる体制が整ってないのか、幼稚園側と協議の結果、通園と並行して訓練施設での発達訓練を行うことで合意した。最終決定したのは、四歳の子ども。幼稚園のお友だちと、小学校でも普通学級で一緒にお勉強したい。そのために、訓練する、と決めた。特別支援学級に通うのが悪いとか、イヤだってわけじゃない。出来ることをする、とわたしと子どもとで約束した。運動訓練は最初の一年だけ、あとは作業訓練を二年間受けた。広汎性発達障害だが、小学校普通学級に入学。独特のこだわりを持ちながら、成長している。

長子の不登校は、断続的。小学校二年半、中学校一年半、高校半年…さすがに全日制高校には通いきれず、通信制高校に移り卒業。って、書けば三行だけど!

さぁ、タイトルロールだ。この一連のゴタゴタの中、丸二年間の休職となった相方。最初は渋っていたなぁ「ここで休んだら昇進にかかわる。昇給しないと子どもたちを上の学校に通わせられなくなる」
そりゃそうかもしれんけど、いま現在まったく出勤出来てなくて。このまま退職になったら、昇進とか昇給とかの問題じゃねーだろ、って。そんなにイヤなら会社辞めてもいいけど、これまでの勤務年数分の休職はもらえるから、もらってから辞めた方が得だよ、と説得した。わたしの母には「人の親として、あんたたちは無責任過ぎる!」と叱られたよ…母は母なりに、わたしたちを案じてくれたんだけど。でもわたしは孤立無援で孤軍奮闘で。この頃からゆっくり、ゆっくり壊れていった。でも、やはり、誰もそれを止められなかった。止める人なんて、最初から居なかった。相方が復職し、上の子が高校をやっとこ卒業し、下の子も滞りなく思春期絶好調になる。

でも、わたしはこわれてしまった