毎朝、つよぽんの演技をとても楽しんでいる一人です。

あの軽妙さ なかなか できるものではありません。

ただ あの方の演技と・・・また 違うと思うのですが・・・

 

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俳優・草彅剛が「あえてそうした」演技とは…朝ドラ『ブギウギ』で見せた“驚くべき大胆さ” (msn.com)

 

 

 NHK連続テレビ小説『ブギウギ』に登場する主人公・スズ子の音楽の師、羽鳥善一は奇妙で、そして魅力的な人物だ。飄々として捉えどころがなく、それでいて超然とした才気を感じさせる作曲家。第6週「バドジズってなんや?」で初登場する羽鳥を演じる草彅剛に、過去に日本映画や演劇の舞台で彼の演技を見てきた観客は思わず息を呑んだのではないか。

 

「あえてそうした」演技

 セリフから意図的に「力み」を抜いているのだ。野球の投球で言えばチェンジアップ、フワリとした超スローボールのように、力を抜いたセリフを静かに微笑みながら投げかける。

 

 

©文藝春秋

 

 

 

 大河ドラマ『青天を衝け』で彼が演じた徳川慶喜、歴史と戦争の狭間で苦悩する見事な演技を記憶している視聴者なら、それが「あえてそうした」演技であることが分かる。

『ブギウギ』の舞台である歌劇団のスタッフとして居並ぶ錚々たる男性たちの重厚な権威に対して、羽鳥だけがまるで遊んでいるかのようにフワリフワリとセリフを投げていく。周囲のストレートに対するチェンジアップのようなその「演技の緩急差」は、羽鳥善一という人物の飄々としたパーソナリティを視聴者に鮮烈に印象づける。

 

 スズ子が羽鳥に初めてレッスンを受ける28話。軍隊のように厳しく、直角に腰を曲げて周囲の男性たちに挨拶することを叩き込まれているスズ子は、2時間前から羽鳥がピアノの前で待っていることを聞かされ、真っ青になって「遅なってすみません」と頭を下げる。だが羽鳥は「ああおはようおはよう、ちょっと待って」と、まるで気にせずにあの力を抜いたセリフを投げる。

 

「寛容な人物」ではない

 レッスンが始まりスズ子が歌うと羽鳥はピアノを止め、静かに微笑む。「USKではそう歌うよね。それはそれで素晴らしい。でもこの歌はそうじゃないかもしれないなあ。なんだか聴いていてあまり楽しくないぞう? ジャズは楽しくなくちゃあ」指を鳴らし、笑いながら踊るようにスズ子に語りかける羽鳥の姿は、「鬼教官が厳しく若い女性主人公を叱りつけ、厳しいシゴキに耐えた主人公が一人前になる」というドラマの定型から大きく外れている。

 

 

 では羽鳥は、スズ子に優しい寛容な人物なのか。そうではない。「福来くんは今、歌っていて楽しかったかい? ワクワクした? 楽しくなるまで何回も行こうか」そうスズ子に語りかける羽鳥の目には、顔の微笑みとは裏腹に真剣な光がある。その言葉の通り、羽鳥は何十回、何百回とレッスンを繰り返す。声を荒げることも、苛立つことも、怒鳴りつけることもなく、ただ「もっと楽しく」と微笑みながら。

 

「楽しさ」を追求する厳しさ

 この脚本が書かれ、撮影が行われたのは、宝塚歌劇団のいじめ・ハラスメント問題をめぐる議論が社会を揺るがしている現在よりはるかに前のはずである。だが結果的に羽鳥とスズ子のレッスンのシーンは、「未熟な練習生を過剰に厳しく指導するのはパワハラではないか」「しかし芸術の達成には厳しさを伴う鍛錬が避けられない」という論争に対する、ひとつの回答に期せずしてなっていた。それは『ブギウギ』の脚本に血肉を与え、羽鳥の人物像を説得力をもって作り出した草彅の演技力の賜物でもあった。

 

 怒声や権威で威圧し圧倒するのではなく、静かに微笑みながら「それでは楽しくない」と何度もレッスンを繰り返す羽鳥の姿は、「楽しさを追求する厳しさ」というパラドックス、芸術の深みに主人公を導いていく。

 

物語が進み、戦争の影が色濃くなるにつれ、羽鳥の飄々とした人物造形、チェンジアップのような台詞回しは、軍国主義の中で統制を強める社会との緩急差をさらに鮮明にする。怒声をあげる憲兵、運営に苦しむ会社、そうした暗い戦前の空気の中で、いわば「カンタービレ(歌うように)」でフワリフワリとセリフを投げる羽鳥の姿に、視聴者はそれが戦争の時代に対する稀代の作曲家の抵抗であることを感じる。

 

『ブギウギ』第10週「大空の弟」で、スズ子の亡き弟をテーマにした曲を手渡す羽鳥の声には、それまでにない深く重い響きがある。それは単なる緩急のチェンジアップを変えて、時代の風を受けてその意味を変化させる、魔球と呼ばれるナックルボールのように揺れる見事な演技だ。以前から多くの作品で草彅の演技力に舌を巻いてきた筆者から見ても、羽鳥善一役は彼の代表作の一つであるように思える。

 

草彅剛が見せた「大胆さ」

 だがその演技力以上に驚くのは、朝ドラという国民的大舞台で思い切って力を抜く演技を見せる草彅の大胆さである。『クソ野郎と美しき世界』『台風家族』『まく子』『青天を衝け』など、多くの日本映画・ドラマを見てきた観客なら、草彅がその気になれば火の玉のようなストレートを投げる強肩の持ち主であることをよく知っている。

 

筆者が2020年に神奈川芸術劇場で白井晃演出の舞台『アルトゥロ・ウイの興隆』を観劇した時、のしあがる若き独裁者を演じ、舞台を降りて客席を練り歩く細身の草彅に猛獣のような威圧感を感じたものだ。

 

 しかし、朝ドラを見るのは草彅の「最高球速」を知る視聴者ばかりではない。初めて彼の演技を見る視聴者、ドラマ全体ではなくつまみ食いのように彼の演技を見た視聴者には、チェンジアップやナックルボールがただのスローボールに見える者もいる。「なんだ、棒読みじゃないか」「ヘタだけど味のある演技だね」という誤解もネットを中心になくはないのだ。

 

「物語に奉仕する演技ではなく、俳優として自分がうまく見える演技をしたい」「一般人から軽く見られるような演技はしたくない」草彅はそうした、芸能人という職業に影のようにつきまとうエゴ、恐怖心から解き放たれているように見える。彼が演じる羽鳥善一がそうであるように。

 

チョナン・カンとして活躍

「2000~10年代に、SMAPの草彅剛さんが韓国を愛して、韓国語を猛勉強して、韓国の番組にまで出ていたことは、ものすごく話題になったんです。日本で一番有名な人が韓国に来てくれているんですから、草彅さんにはぐうの音も出ないですよ」(講談社+αオンライン、2023年11月22日公開)

 

 11月、韓国のバラードの帝王と呼ばれるソン・シギョン氏に横山由希路氏がインタビューした記事が公開された。世界を股にかけるK-POPが憧れの存在である今の中高生世代には、『チョナン・カン』という深夜番組で彼が韓国ロケをしていた20年前の空気が想像もできないかもしれない。

 

『冬のソナタ』が日本でブームになる2003年よりもさらに前から、彼は韓国語を学び、日本文化が規制されSMAPなど誰も知らない時代の韓国をロケで回り、韓国の人々に愛されていた。日本のスーパースターとしてではなく、あまり上手くない韓国語を話す日本から来た不思議な青年として彼が韓国で愛されたのは、その時代にそんなことをする日本の芸能人がほとんど存在しなかったからだ。

 

 韓国の人々に無名の奇妙な青年として扱われることも、当時の日本のネットで「なんのトクもないのに韓国なんかに行くのは在日韓国人だからだろう」と書き込まれることも、草彅はあの頃からまるで恐れていなかったように思える。

 

『チョナン・カン』は、その長い放送期間と、日韓の間に果たした役割にも関わらず、DVDでも配信サービスでもほとんど見る手段が存在しない。筆者自身も正直なことを言えば、放送されていた時代に毎週見ていたわけではない。

彼がどのように韓国の人々と交流したか。日本に暮らす在日韓国人と韓国生まれのカップルに、番組の中でどのように関わり、あの時代にそれがどれほど意味のあることであったか。それを書き記して2023年に伝えるのは、本来それをすべきだった大手ジャーナリズムではなくファンたちの個人サイトのみだ。

 

毀誉褒貶を恐れない

 草彅が世間の毀誉褒貶を恐れないのは、そのようにして彼をずっと見守るファンたちの存在を知っているからなのかもしれない。SMAP解散の前後、ほとんどの業界人が「新しい地図」の3人に背を向けた。そしてジャニー喜多川の死、公正取引委員会による排除行為の是正勧告、BBCの報道からはじまる性被害告発によって、業界人たちが別人のように再び手のひらを返すのも目の当たりにしたはずだ。それは『ブギウギ』の中で羽鳥善一が経験する、戦中と戦後ほどにも隔たりがある、人間不信になりかねないほどの落差だったはずである。

 

 そうした時代の中で、変わらないものは唯一、ファンたちだけだった。2018年に『クソ野郎と美しき世界』が期間限定で劇場公開された時、劇場を埋め尽くしたファンたちの光景を今でもよく覚えている。筆者は当時まだ物を書く仕事などしたこともなかったが、映画の第三部でヤクザを演じる草彅の演技の素晴らしさ、そして芸能界から干された彼らを支えるファンの熱さを当時のツイッターに興奮しながら書き込んだものだ。

 

 草彅は昔から、自己アピールをあまりしない。『チョナン・カン』にどれほど先見の明と社会的意義があったかも、自分の演技にどのような意図があるかも自ら語ることは少なく、見るものに任せている。たとえ世間が何度手のひらを返しても、演技の意味を理解しない視聴者がいたとしても、草彅が何も恐れずに自分の心に従う芝居ができるのは、あの劇場を埋めたファンたちがいるからかもしれない。

 

草彅の姿から想起したもの

『ブギウギ』はここからさらに佳境に入る。羽鳥善一のモデル、服部良一が笠置シヅ子の代名詞『東京ブギウギ』を生み出すのは戦後のことだ。ここからクライマックスにむけて草彅の演技がどう変化するのか、さらに見逃せないシークエンスになる。

 

 それとともに筆者は、草彅が演じる羽鳥善一から、ある先輩俳優を想起する。それは『ブギウギ』の主演をつとめる趣里の父親、水谷豊である。鶴のように痩せたスレンダーな体型、飄々としながら知性と才気を感じさせる台詞回し。もちろん草彅がそれを意識したわけではないのだろうが、羽鳥善一は若き日の水谷をどこか彷彿とさせる役にもなっている。

趣里の芸能界入りにすら反対したという水谷は、娘と朝ドラで共演することなどなかっただろう。だがそれゆえに、「もう一度、もっと楽しく」とジャズのリズムで主人公・スズ子を導く羽鳥善一の中に、草彅の演技が水谷豊を想起させてくれるのは、筆者にとって思いがけないプレゼントだった。

 

 今年11月に逝去した脚本家・山田太一の訃報がメディアを駆け抜けた日、SNSには『男たちの旅路』で若き日の水谷が鶴田浩二演じる元特攻隊員に詰め寄る動画が流れ、その素晴らしい演技があらためて多くの反響を呼んだ。山田太一が戦争世代へのメッセージをこめた長いセリフを語る水谷の演技は、必ずしも大袈裟に感情をたかぶらせるものではない。

むしろ政治演説などしたことがない青年のリアリティをこめた、不器用で遠慮がちな台詞回しだ。水谷もまた草彅と同じように、「上手く見える演技がいい演技ではない」ことを知る役者、力押しのストレートだけではない、ナックルボールのような変化球を使いこなす名優なのだ。

 

陰影に満ちた演技も

 草彅は『ブギウギ』と並行して、NHKの土曜ドラマ『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』で手話通訳士を演じている。羽鳥善一とはまったく違う、陰影に満ちた演技に、朝ドラと並行して視聴する人々は驚くだろう。並外れた演技力を持ち、今や映画大国となった韓国と日本を知名度でつなぐ草彅剛は、水谷豊がそうであったように、多くの役割を日本の映画・ドラマの中で果たしていくことになる。その時に彼が投げるのは、魔球のように揺れるナックルボールだろうか。それとも思い切り腕を振り抜いた、火の出るようなストレートだろうか。

(CDB)