先週は、喜びごとと、悲しい出来事が立て続けに起こりました。

 

メキシコシティに住む家族に赤ちゃんが生まれました。

 


Facebook やってるメキシコの家族の中では、

「Soy tíaa otra vez!!!! /また叔母になった!!!」

とか、

「Muy feliz! Nuevamente tía./とても幸せ!再び叔母に」

と皆、家族が増えた喜びの言葉で溢れてた。

 



私も次のメキシコ行きで、会えることを凄く楽しみ照れ

かなり大きな赤ちゃんで目もパッチリしていて

凄く可愛いラブ

 

 

新しい命の誕生は、尊い事で大きな喜びになりましたキラキラ

 

というのも、実は

その2日前に悲しいお別れがあって

喪失感のなかにいたから…


 

2年近く闘病していた義従妹が亡くなって

気を落としていた私たちは、

その明るいニュースによって

少し気持ちを変えることができました。

 

 

人が亡くなる…、人が生まれる…、

この普遍の現実を改めて感じた週でした。

 

 

 

ここで感じたのは、言葉の使い方

 

私だったら、“赤ちゃんが生まれた”と

いうでしょう。

 

でもメキシコの人たちは、

「私はまた叔母になった」と、喜びを伝えて

います。

 

赤ちゃんが生まれたということを言っている

のですが、

主語が赤ちゃんではく自分なんですね。

 

主体的な言い方だなぁ、と感じました。

 

 


また、母を亡くした姪っ子は

「愛する私の女王様は、空高く飛んで

いきました」と表現していました。

 


“母を失った”とは言わず、

母は神様のところへいった、という

言い方をしています。

 


ショックで嘆き悲しんでいるのが

想像され、こちらも悲しいし

ショックを受けていたのですが、


彼女たちからは、“亡くした”など、

マイナスの言葉は出てきません。


 

 

そういえば、

メキシコのお義母さんが亡くなった時、

お義兄さんは言いました。

「お母さんは、亡くなったんじゃない、永い眠りについただけ」と。

 


同じ状況でも使う言葉で、聞いている側の

心が和らぐことを感じました。

 

 

私はそのままストレートに言ってしまう質

(たち)なのですが、これからは心の向きを

意識して言葉を選んでいきたいな、と

思います。


 

発する言葉だけで、自分自身のココロの

向きも変わるように思います。

 



生まれた翌日の赤ちゃん👶🏻
メキシコの着ぐるみピンクハート