ヨハネの福音書     35 | 本当のことを求めて

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ヨハネの福音書     35  12章27節~43節

 

何が先であるか

27節でイエス様は、「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです」とおっしゃっている。

「父よ。この時からわたしをお救いください」と祈るということは、相対的な肉の次元を優先させることになる。イエス様も、人間と同じ肉体をお持ちであるために、肉体の本能的要求もよくご存じなのである。そしてもちろん、イエス様は、肉体を守ることではなく、神様のみこころのままに肉体的命を捨てる道を選ばれた。

またこの御言葉は、共観福音書に記されているゲッセマネの園での苦痛の祈りに通じる。『ヨハネ』には、ゲッセマネの記事はない。そして、ゲッセマネの園での祈りも、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(『マタイ』26:39)という祈りで終えられた。

イエス様によって救われ、前回見たように、イエス様に仕える者はイエス様が歩んだように歩む。しかしそれは、同じように十字架につけられることではなく、霊的に同じ次元を歩むということである。この世で宗教的な道を歩んでいるように見える人々もたくさんいるが、その人々が何を優先させているか、ということで、本物であるか偽物であるかがわかる。現世利益を先に立てて、そのために宗教的行為に熱心であるならば、それは偽物である。現世利益的なことも確かに報いとして伴うが、それは自然と与えられるものである。ただ目指すべきことは、神様のみこころが成就することであり、そのために、各個人の魂の上昇がなされ続けることである。

 

天からの御声

そして続く28節には、「『父よ。御名の栄光を現わしてください。』そのとき、天から声が聞こえた。『わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。』」とある。まず訳の問題であるが、「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう」という箇所は、新共同訳のように、「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」と、文章を二つに分けて訳すべきである。

イエス様は、ここで「御名の栄光」を祈り求めておられるのであり、その栄光とは、旧約時代から今まで、この地上で表わされたことのない栄光である。イエス様はそのために来られたのであり、ここでそれを祈り求められているのである。

その答えとして、天の御声にある「わたしは栄光をすでに現わした」という栄光とは、すでにこの地上に現わされた栄光を指す。それは、旧約聖書に記されている神様のご栄光であり、啓示のご栄光である。神様がイスラエル民族をお選びになり、そのイスラエルのすべてを通して、神様がおられることを現わされた。そして、そのイスラエル民族、つまりユダヤ人から救い主がこの世に来られる、ということを啓示された。これがまさに、「すでに現わされた」ご栄光のすべてである。

それに対して、再び現わされるご栄光は、まさに新約時代の神様の栄光であり、福音である。その神様の啓示が、イエス様の十字架の贖いを通して、イスラエルから異邦人へと広がって行くのである。

新改訳聖書のように、「現わしたし、またもう一度」と、はっきり文章を区切っていないことの背後には、誤った解釈があると考えられる。つまり、すでに現わされた栄光は、ここまでのイエス様がなさったみわざなどを指し、もう一度現わされる栄光は、これから行なわれる十字架の死と復活を指す、という解釈である。

イエス様が地上に来られた目的は、十字架の贖いのためであり、それがすべてである。公生涯で語られた御言葉と、行なわれたみわざも、すべてそのためである。神様のご栄光は、イエス様ばかりではなく、すべての相対的次元に表わされており、神様を認識できる唯一の存在である人間を通して、意識的にも表現されている。しかし、十字架の贖いは、言うまでもなく神の御子であるイエス様のみのみわざである。イエス様がマリヤの胎内に来られた時から、地上における十字架の贖いは始まっていたのである。

 

さばきの始まり

その天からの御声を聞いた群衆は、「雷が鳴ったのだ」、あるいは「御使いがあの方に話したのだ」と言っていたが(29節)、イエス様は30節で、「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです」とおっしゃった。

まだ御霊が下っていない時点では、霊的なことを悟ることは誰にもできない。そのため、誰の耳にも響くように、天からの御声が聞こえるという奇跡が起こされたのである。肉にも感じられる奇跡の多くは、このように、御霊を持たない者も知ることができるために与えられるのである。したがって、それはイエス様に語りかけた御声ではなく、まだ御霊を受けていない「あなたがたのため」なのである。

そして、続く31節でイエス様は、「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです」とおっしゃった。この世の完全なさばきは、終末の時である。しかしイエス様は、この時に「今がこの世のさばきです」とおっしゃっている。その意味は、イエス様を信じる者は、この世を支配する者、つまり悪魔サタンからの束縛から解放される、ということである。

以前にも述べたが、悪魔サタンという独立した存在がいるわけではない。それは、相対的次元に表わされた神様の影に過ぎない。相対的次元においては、神様においても、その神様に相対する存在が表わされる。それでこそ、相対的次元に絶対的次元の神様が働かれることになる。言わば、悪魔サタンは相対的次元における神様の必然である。

この真理に立って見れば、その悪魔サタンが追い出される、とは、信じ救われた者は、神様の絶対的次元に向かってその魂が引き上げられ始めることにより、もはやその救われた者に対しては、悪魔サタンは何もすることができなくなる、ということである。それは、光が当たれば、どんな深く見える闇もすぐに消滅するように、神様の光を持つ救われた者たちには、必然的に神様の影はなくなるのである。したがって、救いのみわざが広まれば広まるほど、この相対的次元から悪魔サタンの支配する領域は狭まっていくことになる。まさに、この世がまだ滅ぼされる終末の前に、そのさばきが始まるのである。

そのことを、さらに具体的に32節で、「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」とおっしゃっている。救われて御霊を受けた者も、まだ肉体はこの地上にあるので、見た目には救われていない人と同じように見えるが、その時から絶対的次元に向かっての行程が始まるのである。「引き寄せる」という言葉を見ると、その引き寄せられる場所にすぐに集められるように思えるが、これは過程である。引き寄せられる究極の場所は、神様の絶対的次元であり、その究極に至れば、人の魂は神様と一つとなって消えてなくなるのである。

続く33節に、「イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである」とあるように、イエス様はご自分の死が、多くの者の救いのためであることを、十字架の死の前に、このように語られたのである。

 

決定的なつまずき

このイエス様の御言葉を聞いた群衆は、「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか」(34節)と言った。すでに見たように、この時点では、多くの者たちが、イエス様はキリストであると受け入れていた。そしてキリストは死ぬわけがないのだから、このイエス様の御言葉は、彼らには非常に不思議に思えたのである。

「その人の子とはだれですか」という言葉の意味は、それは誰のことを言っているのか、ということであり、それほど、キリストは死なないということが、当時のユダヤ人たちには常識だったのである。ここからも、イエス様が捕えられ、十字架にかかられることが、ユダヤ人にとっては、決定的なつまずきであったことがわかる。

 

光がある間に

続く35節から36節でイエス様は、「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」とおっしゃられ、これらのことを語られると、立ち去られたとある。

これまでもイエス様は、ご自身が光であり、それに対する「やみ」がやがて来るということを9章4節から5節と、11章9節から10節で語られていた。この本文の御言葉の意味も、これらと根本的には同じ内容の御言葉である。

しかし、11章9節から10節の「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです」という御言葉は、ラザロをよみがえらせるために出発する直前に語られた御言葉であるため、十字架にかかられるまでまだ時間があった。したがって、この御言葉の意味は、ご自分が捕らわれるその時まで従うように、ということである。

それに対して、今回の御言葉は、9章4節から5節の、「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です」と語られた内容に通じる。この9章の御言葉は、弟子たちに向かっては、目の前におられるイエス様に従うことを求める内容であるが、イエス様を信じる者の内に御霊が住まわれる現在においても、そのまま当てはまる。「だれも働くことのできない夜」とは、終末のことを指しているからである。

 

「信じた」という言葉

続く37節には、「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった」とある。ここまでの『ヨハネ』の記事には、多くの人々がイエス様を「信じた」という言葉が多く記されてあった。その流れからすると、いきなりここで「信じなかった」とあることは、明らかな矛盾に見える。

ここまでも多く記されていた「信じた」という言葉は、イエス様が彼らの期待している政治的なメシヤだと受け入れた、という意味である。しかし、この箇所の「信じなかった」という言葉は、真実の救い主として受け入れることはできなかった、ということである。

同じ「信じる」という言葉であっても、その指す内容が異なっているのである。このことを文章の流れからしっかりと読み取らなければ、御言葉そのものを誤って解釈してしまうことになる。この「信じなかった」ということは、続いてこの後にも述べる。

 

イザヤの預言

そして38節には、「それは、『主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか』と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった」とある。これは、『イザヤ』53章1節の御言葉である。

この『イザヤ』53章は、イエス様の苦難が最も具体的に表わされている箇所である。そのため、ヨハネは、この1節を引用することによって、『イザヤ』53章全体を指しているものと考えられる。

さらに続いて39節から40節には、「彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。『主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである』」とある。これは、『イザヤ』6章9節から10節の内容である。

この預言の内容を見ると、神様が人々の目を盲目にされたために、人々が信じることができなかったのであり、あくまでも神様のみわざの一環であることが明らかである。そしてさらに本文の続く41節では、「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである」とある。

普通に考えると、神様はどんな時でも、人々が神様に目を向け、悔い改めて神様を受け入れることを願われているはずだ、ということになる。しかしここでは、イザヤがイエス様の栄光、つまり、その命を捨てられることによって成就する贖いについて示されたために、このように預言したとある。もし人々がイエス様を正しく神の御子として受け入れたならば、イエス様は十字架に追いやられることはなく、十字架の贖いは成就しない。つまり神様は、イエス様が十字架につけられるために、人々を盲目にされた、ということである。上に引用した37節の「信じなかった」ということも、神様がそうさせたのである。単に人々の罪が深くて信じられなかった、というようなことではないのである。

 

神からの栄誉よりも

続く42節には、「しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった」とある。

「それにもかかわらず」とは、神様が人々の霊的目を盲目とさせたにもかかわらず、という意味である。この指導者たちは、言うまでもなく、旧約の御言葉に精通している者たちである。すなわち、彼らにももちろん、御霊は下ってはいないが、彼らは御言葉を知っていたのである。そして、その御言葉からすると、イエス様こそ、律法や預言書に預言されていた方である、と言うことを認めざるを得ない、と悟っている者たちがいたのである。

しかし、この節にあるように、彼らは、会堂から追放される、つまり、ユダヤ人として生きて行けなくなることを恐れて、告白はしなかった。まさに彼らは、43節にあるように、絶対的な神からの栄誉よりも、相対的な人の栄誉を愛したのである。

この時点では、まだ御霊が下っていないので、御言葉を通してイエス様の真実の姿に気づいても、やはり相対的なこの世を優先させてしまうことはあり得た。しかしそれに対して、ペンテコステ以降の御霊の下る現在においては、救われた者は、「神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛した」というような状態になることは認められない。

現在、ほとんどの教会に属する者たちは、その教会を統率する組織に属している。宗教は、組織となった途端、宗教的生命が失われ始める。教会のリーダーたちも、その組織に属し、その組織に従っていなければ、給料がもらえず、家族を養うことができなくなると考える。もちろん、イエス様の御言葉にそのようなことはあるわけがなく、そのような者たちこそ、御言葉よりも、人から認められることを愛しているのである。