『ヨハネの福音書』   01  | 本当のことを求めて

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ヨハネの福音書     01     1章1節~13節

 

神様を表現されたイエス様

『ヨハネ』の冒頭の1節から2節には、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた」とある。

この「初めに」とは、時間的な「最初」ということではなく、「究極的には」という意味である。すでに『創世記講解1』で述べたように、究極的には、絶対的次元があるだけであり、絶対的次元の神様がおられるだけであるが、もし絶対的次元だけしかなかったならば、その絶対的次元も表現されず、無と等しくなってしまう。したがって、その絶対的次元の表現として、私たちがいる相対的な次元があるのである。このことを知れば、絶対的次元と相対的次元は、共になければならないものであり、どちらもなくてはならないものなのである。

次に「ことばがあった」とあるが、この「ことば」の原語はロゴスである。もともとギリシヤの哲学用語であり、「真理を表わす言葉」、「道理にかなった言葉」などという意味である。そして、この『ヨハネ』の冒頭の箇所を見ればわかるとおり、この「ことば」はイエス様を指している。すなわち、絶対的次元のイエス様である。

後の箇所であるが、『ヨハネ』1章18節に、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」とある通り、絶対的次元の神様と同等なる方であるイエス様は、相対的な肉体を持ってこの地に来られ、その御言葉とみわざをもって神様を表現された。ヨハネは、このことを、続く「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた」という記述で表わしているのである。

 

いのち

そして続く3節には、「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」とある。これも『創世記講解』の最初から述べているように、すべての存在は神様が造られたということは神話的表現であるが、その神話的表現を通さなければ、現在の人間を含めたこの世の状態は説明できない。したがって、ここでもそれを受けて、「この方によって造られた」と記されているのであり、この「ことば」が創造のわざをなさった、ということも神話的表現である。

次の4節前半には、「この方にいのちがあった」とある。この「いのち」は、『創世記』において人がエデンの園で与えられていたとされる「永遠のいのち」に他ならない。つまり、肉体の死とは関係のない「いのち」である。これはこれ以降、何度も繰り返し述べられることになるが、イエス様を信じる者には、この「永遠のいのち」が与えられ、肉体が死んでも魂は滅びに向かうこの世における転生を繰り返すことがなくなる。そして、数多くのパラダイスにおける転生を経て、やがて神の御国に迎え入れられるのである。救われた者はパラダイスにあって、測ることもできないほどの長い期間、神様を賛美し、神様を礼拝しながら生き続けるのである。

既存のキリスト教会では、この「永遠のいのち」を、天国において永遠に生き続けるところの命と解釈している。彼らにとって「いのち」とは、地上における肉体の命と、天国における「いのち」以外考えられないからである。なぜなら、人生は一度きりのものであり、肉体が死んだら、結局、信じる者は天国に、信じない者は地獄に、という構図しか持っていないからである。それでは、真理を表現することは不可能である。既存のキリスト教会でいうところの天国とは、究極的な神様の次元ということである。しかし本来、命とは相対的な時間の流れの中でのみ有効な言葉であり、絶対的な次元は時間を超越しているので、そこには命という概念は当てはまらないはずである。

この「永遠のいのち」とは、上に述べたように、信じる者に与えられたところの、肉体の有無に左右されない命であり、肉体の死後も引き続き、相対的な次元であるパラダイスにおいて持ち続ける「いのち」である。一般の社会で言われる命とは、生物学的な肉体の生命に他ならない。真実の人間の「いのち」とは、そのような動物や昆虫などと同じ生命などではないのである。これ以降、この「いのち」も漢字で命と表現することにする。それは繰り返すが、生物学的生命を指しているのではない。

 

光と闇

そして続く4節後半から5節には、「このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」とある。この御言葉を、イエス様は人々の悩み苦しみという闇を取り除かれるために来られたと読んでは、あまりにも浅い解釈と言わざるを得ない。

人は、真っ暗闇では何も見えない。足はあっても、その進むべき道が見えないので、一歩も踏み出せない。たとえ進んでも、もちろん暗闇では自分がどこへ向かっているのかもわからない。たぶんこっちの方向でいいのだろう、という思いがあったとしても、それが正しいという証明は得ることができない。たくさんの人たちがその方向に向かっているから、自分もそっちに向かうのだと決めても、やはりそれが正しいという証明にはならない。したがって、常に心の奥底では不安を抱くことになる。まさにそれが、神様を知らないこの世の人々の姿である。

しかし暗闇の中でも、そこに少しでも光があり、「こちらに進め」と指示があるならば、誰でもそこに向かって進むことができる。暗闇における光とは、人々に行くべき道を指し示すものである。その行くべき道こそ、パラダイスへの道である。霊的暗闇のこの世の中で右往左往しながら、この世が終わるまで転生を繰り返し続けるならば、やがてこの世が終りを迎える時に、この世と共に魂の終わりを迎えなければならない。それは暗闇から導き出してくれる光を見出せなかった結果である。

その暗闇の光として、イエス様は地上に来られた。イエス様を信じる者は、暗闇から抜け出す道へと導いてくれる光を見出したのである。そもそも、暗闇とは光の欠如を表わすものなので、そこに光が照らされれば必ず闇は消え去る。暗闇であるこの世のどのようなものであっても、神の御子であるイエス様の光に打ち勝つことなどできるわけがないのである。

 

その名を信じた者

そして、次の6節から8節には、その光を証する人物について記されている。それがバプテスマのヨハネである。このバプテスマのヨハネについては、次回以降、また述べられる。

次の9節は、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」とあるが、新共同訳では、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」となっており、訳としては新共同訳の方が妥当である。ここで「来ようとしていた」というような、何かが中途にいるような表現は必要ない。

そして続く10節には、「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」とある。人間はすべて、神様などいないということが大前提となっているこの世に、本人も神様を知らない存在として生まれて来る。それは人間の業によることであり、そのため、生まれながらに神様を信じている者などいないのである。これもすでに述べたが、『創世記』8章21節の、「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ」という箇所がそのことを表わしている。そしてこの本文の箇所でもそのことを記しているのである。

神様は、そのような世にご自身を表わし人々を導くために、ユダヤ人を選ばれた。それは聖書の神話的表現によれば、遠くアブラハムの時から定まっていたことである。しかし、11節に、「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」とあるように、ユダヤ人たちはイエス様を受け入れず、最後は十字架に追いやったのである。

本来ならば、「ご自分のくに」の民が受け入れるべき救い主であったが、彼らは受け入れなかった。ユダヤ人はすべてユダヤ教という宗教を持つ人々である。地上における救いの神様のご計画においては、最初、アブラハムから始まるとされるユダヤ人という民族のユダヤ教という宗教において、時至って地上に来られるイエス様が証されるべきであった。ところが、ユダヤ教のユダヤ人たちはそれを受け入れなかった。ではその神様のご計画が頓挫したかと言うと、これに続く12節に、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」とある。

「その名を信じた人々」とは、言うまでもなくイエス様を信じる者たちであるが、ここに、ユダヤ人や異邦人という区別はなく、宗教も問われていない。ただ、誰であってもその救い主としての御名を信じれば、救われるのである。これに続く13節で「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」と記されている通りである。この11節から13節の短い箇所に、イエス様が民族を超越し、宗教を超越していることが的確に表わされているのである。

 

宗教の枠を超えたイエス様

このように、イエス様は民族と宗教を超越した救い主であるが、イエス様ご自身も、最初からユダヤ人を優先させることはなく、ユダヤ人もユダヤ教も超越した教えを説かれたことは、四福音書を見れば明白である。

たとえば、イエス様は『マタイ』3章9節(同一記事『ルカ』3章8節)で、「『われわれの先祖はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです」とおっしゃっている。石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことができる、などという言葉は、自らの民族に深い誇りを持つユダヤ人にとっては、大きな侮辱の言葉であるが、イエス様は堂々とそのように語って、ユダヤ人だけが神の民ではないことを明らかにされている。

また同じようにパウロも、『ガラテヤ』3章7節で、「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい」と語り、イエス様を信じてこそ、どの民族の者も神の民となれるのだ、ということを述べている。パウロはイエス様の十字架を、ユダヤ教の律法にある罪の赦しのためのいけにえとして述べ伝えた。このように彼はユダヤ教的にイエス様を述べ伝えたとはいえ、その教えの内容は、ユダヤ人たちが十字架につけて殺したイエス様が救い主である、というものであったので、やはり同じようにユダヤ人からの迫害は免れなかったわけである。

現在のキリスト教におけるイエス様についての表現も、あくまでもユダヤ教的に表現されたものである。それは、ユダヤ教の律法を知っている者に限って有効なイエス様像である。その証拠に、キリスト教は、ユダヤ教の聖典を旧約聖書と呼んで同じく聖典としている。キリスト教は、ユダヤ教の一派に過ぎない。