『創世記』   05 | 本当のことを求めて

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『創世記』   05     3章20節~5章32節

 

皮の衣

20節にはエバという名前が、21節には、アダムという名前が初めて登場する。エバは、新改訳聖書の下の注にある通り、「生きるものに命を与えるもの」という意味の「ハイ」から「ハバ」となって、「エバ」とも呼ばれるようになった。そしてアダムは「土のちり」から造られたのであるから、「土」という意味の「アダマ」からその名がきている。

そして、21節には、「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」とある。この御言葉についても、既存のキリスト教会では、ここでイエス・キリストの十字架の贖いが表わされているとする。すなわち、皮の衣は、動物を殺して、血を流さなければ得られない物であることから、これは人のために動物がいけにえとなって殺されたことであり、イエス様の十字架の預言だとするのである。

しかし、この考え方も無理やりな解釈であり、誤りである。普通に考えれば、3章7節にあった「いちじくの葉」などよりも、皮の衣の方がずっと丈夫である。つまり、神様は、善悪の知識の木から食べた人間を責めるのではなく、むしろ、裸であることを恥ずかしいと思うようになった人間を受け入れられ、それならばそれに最もふさわしい衣を与えられたということである。これはまさに、神様は人がどんな状態にあっても、完全に導かれるのだ、という神話的表現である。衣の中で、皮のものが最も上等である。

 

善悪ということ

22節で神様は、「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」とおっしゃっている。善悪の知識の木から取って食べた人間は、絶対的な神様の霊を宿していながら、相対的な次元において相対的認識によって判断をするようになった。善悪を判断することは、相対的認識を働かせることに他ならない。

そもそも、相対的世界とは、そのすべてが、一つ一つ互いに相対しているということである。そのため、人間の各人の善悪もすべて相対していて、何一つ、同一の善悪はない。ある人にとって善であるものも、他の人には悪であることなど、この世に数えきれないほどある。さらに人は、必ず善悪の判断によって行動する。その証拠に、自分がやっていること、またはやろうとしていることが完全に悪だとわかっているにもかかわらず、それができる人間は誰一人いない。たとえば、悪いことかも知れないが、それを行なうことによって得られる結果は善いことだろう、という判断の場合はそれを行なう。つまり、善と悪の比率によって行動が決定し、どのような理由であろうが、善という結果が得られると判断されれば、それが行なわれるのである。人の言動を決定するものでありながら、相対的次元における善悪とはそれほど不完全なものなのである。

上に引用した箇所に、「人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった」とあるように、善悪が完全に行なわれるということがあるならば、それは神様と霊的存在の次元である絶対的世界においてのことである。

しかし、前回も述べたように、神様の絶対性は不完全さを通して表わされる。言い換えれば、人間が不完全でなければ、人間は神様の表現とはならないのである。むしろ、そのために善悪の知識の木から取って食べた、と言えるのである。聖書の神話的表現によれば、あくまでもそれは神様の戒めを破った、という、それこそ、悪なることであるが、それは神話の記述のためにそう表現されているのであり、むしろ、人が善悪の知識の木から取って食べなければ、人は神様を表現することはなかったのである。神話とは、このようなものであり、正しい解釈が必要なのである。

そして神様は、このように不完全な存在となった人間がいのちの木からも取って食べないように、人をエデンの園から追放された。神様は、人間に対して怒りを発して、園から追い出されたのではなく、善悪を知るようになった人間にふさわしい道に導かれたのである。

またさらに神様は、エデンの園への道に、「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣」を置かれた(24節)。ケルビムが後の律法の規定によって、契約の箱の上に置かれるようになることを見ると、ケルビムは、聖なるものに人間が触れないようにする役割の御使いであることがわかる。

 

カインとアベル

4章に入り1節から2節前半には、「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、『私は、主によってひとりの男子を得た。』と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ」とあり、人類最初の二人の子供が産まれたことが記されている。

こうして生まれたカインとアベルについて、2節後半には、兄のカインは「土を耕す者」となり、弟のアベルは「羊を飼う者」となったとある。そして3節から4節の前半に、「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た」とある。

「ある時期」とは、この箇所を読んでわかる通り、神様へささげ物をささげる時である。エデンの園からは追放されたが、引き続き神様との交わりは断絶していなかったことがわかる。しかし、4節の後半から5節の前半には、「主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった」とある。

では、カインに神様が目を留められなかった理由は何であろうか。そのことについて、聖書には明らかな理由が記されていない。しかし、その後の記述を正しく解釈すると、その理由が見えて来る。

自分と自分のささげ物が受け入れられなかったカインは、5節後半にあるように、ひどく怒り、顔を伏せた。それに対する神様の御言葉として、続く6節から7節に、「そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたは正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」とある。

この7節の「罪は戸口で待ち伏せしている」という御言葉に注目しなければならない。聖書に「罪」という言葉が出てくるのは、これが最初である。そしてこれは、これ以降の聖書を読み取る上で、非常に重要なことである。

カインは、5節後半に、「それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた」とあるように、受け入れられないと知るや否や、神様に対して「ひどく怒った」のである。ここから、普段の生き方においても、カインの心は神様から離れていたことが明らかである。つまり「罪」とは、「神様から離れていること」なのである。これは聖書の最初から最後まで貫く真理である。ところが、既存のキリスト教会では、罪を道徳的罪、あるいは旧約聖書にある律法を犯していることと解釈してしまっている。これでは、聖書の御言葉を正しく解釈することは不可能である。

 

最悪な結果

さらに、7節の最後の部分に、「だが、あなたは、それを治めるべきである」とあるように、神様は、カインのそのような状態から、彼が再び神様へ目を向けるよう願っておられたことがわかる。しかし、8節にあるように、カインはその怒りにまかせ、弟のアベルを殺してしまった。アベルとしては、兄のカインに対して何もしていないはずであるから、殺されるとは理不尽この上ないことである。カインは、神様に対する怒りを弟にぶつけたのである。それも、人類最初の殺人という、最悪な結果が生み出された。

ここで、聖書における最初の死ということが記されることになる。最初に死んだのはアベルである。そして続く9節には、「主はカインに、『あなたの弟アベルは、どこにいるのか』と問われた。カインは答えた。『知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか』」とある。このように、カインは神様に対して嘘を言うようになり、さらに、神様の御言葉を批判する態度にさえ出た。

そこで神様は、10節から12節で、アベルの血を土地に流したカインは、土地からのろわれ、彼は「地上をさまよい歩くさすらい人」となると語られた。「土地からのろわれる」ということは、完全にカインと土地は相対関係どころか、敵対関係になったことを表わしている。したがって、カインは一定の土地に定着することができなくなり、さすらい人とならなければならないのである。

するとさすがにカインは驚き、13節から14節にあるように嘆くこととなるが、この彼の言葉の中にも、全く自分自身を反省しているものなど微塵もなく、一方的に神様が自分を土地から追い出すような言い方をしている。

そして、その神様のせいで、「私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう」と訴えた。しかし、このような身勝手なカインの言葉に対して、15節に「主は彼に仰せられた。『それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。』そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった」とあるように、神様は彼を保護することを約束された。

この「一つのしるし」が何であるかは、もちろん知る由もないが、殺人まで犯し、さらに微塵も反省さえしないカインを、なぜ神様はここまで保護されるのであろうか。それは、ただひとつの理由からである。

それは、カインの中に、まだ神様の霊が宿っていたからである。カインが神様と会話していることが、その一つの証拠である。この後、人間はさらに神様から離れ、神様の霊が人間から離れることになるが、この時点ではまだ、すべての人間の中に神様の霊が宿っている段階なのである。神様は、ご自身を否定されることはおできにならない。そのため神様は、たとえカインのように殺人を犯した人間であっても、設定された寿命が尽きるまで、死を見ることをお許しにならないのである。こうしてカインは、主の前から去ったと16節に記されている。

 

肉中心の歩み

この後カインは妻をめとり、エノクという子供が生まれた。「カインは町を建てていた」(17節)とあるところから、この話はかなり年数がたってからのことであることがわかる。後にも見るが、アダムとエバの間には、さらに多くの子供たちが生まれており、さらに人間の寿命はまだ数百年という非常に長いものであったので、人口が爆発的に増えていき、各地に町ができていったということである。

18節から24節の箇所は、カインの子孫について記されている。内容は読めばわかるものであるが、注目すべき個所は、23節から24節にある、レメクが妻たちに言った言葉である。傷を受けただけで相手を殺すという、非常に自己中心的な宣言であり、さらに「カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍」とまで言い切り、神様を知りながらも、もはや完全に自分中心の人生を歩んでいることが明らかとなっている。

ここまでの人間は、まだ神様の霊を宿している状態であったので、完全には神様がわからなくなった状態にはなっていない。しかし、レメクの言葉から明らかなように、さらにカインよりも状態がひどくなっている。

 

セツ

25節には、アダムとエバの間にはセツが生まれたことが記されている。エバが「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから」と言っていることからもわかるように、殺人者であるカインの子孫とは別の子孫が、ここから始まるのである。

そして次の26節に、セツにもエノシュという子供が生まれたことが記され、それに続いて26節の後半に、「人々は主の御名によって祈ることを始めた」とある。これまでは、神様と人とは、顔と顔を合わせるように会話ができていた。しかし次第に人は神様から離れ、もはや、神様と会話が成立するような状態ではなくなっていったということである。そのため、「祈り」の必要が生じた。

では、その祈りとはどのようなものであろうか。それは上に引用した箇所に、「主の御名によって祈る」とあるように、もはや神様の御顔も見ることができなくなっているので、「御名」によって祈るのである。これはまさに、現在の信仰者の祈りそのものである。

 

歴史とは

続いて5章に入り、冒頭の1節には、「これは、アダムの歴史の記録である」と記されている。エデンの園から追放された人は、これ以降、歴史を作っていく。その歴史に沿うようにして、聖書の神話は続いていくのである。これもあくまでも神話であるため、歴史的事実ではないが、ここから歴史とは何か、ということが明らかとなる。

歴史とは、人間だけが作り出すものである。他の動物には歴史はない。他の動物は機械的に同じことを代々繰り返すのみである。もちろん、環境の変化に応じて、その環境に適応した肉体を持つようになったり、新しいことを学習したりするようになることもあるが、それはあくまでも、その環境において最善に肉体を生かすようにする本能によるものである。

歴史は、認識がなければ形成されない。認識は自覚をもたらすとはすでに述べた通りである。自分たちが歩んできた時間的経過の中で、自分たちがどのように生きて来たかということを常に認識し自覚することにより、さらにどのように生きたらよいか判断しながら歩んでいくことによって、歴史は常に新たに形成されていく。

そのため、歴史は同じことは繰り返さない。「歴史は繰り返す」とは言うが、それは抽象的な意味において同じようなことが繰り返される、ということであって、具体的な事柄が繰り返されるということではない。

 

セツの系図

前の4章の最後の箇所にも、アダムにセツという子が生まれたことが記されていたが、再び、1節から3節にそのことが記され、4節から5節の箇所では、アダムはセツが生まれてから八百年生き、他の子供たちも生み、九百三十年生きて死んだとある。聖書において、アベルに次いで二人目の死の記述である。このように、これより後はセツの子孫の系図となる。そしてその子孫からイスラエル民族が興り、そのイスラエル民族からイエス様が地上に来られるのである。

この箇所のセツの系図の中で注目するところは、24節である。そこには、「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」とある。なお、このエノクと、カインの子のエノクは全く別の人物である。聖書の中で、肉の死を体験せずにこの世から取り去られた人物は、このエノクと、後の預言者エリヤだけである。

これは、あくまでも神様と完全に一致するならば、肉体の死というものはない、ということを神話的に表わしている。しかし、すでに人間は神様から離れて生きるようになっており、神様と顔と顔を合わせるようには生きられなくなっている。そのため、エノクとエリヤは非常に特別な人間であると言わざるを得ない。またこれも神話なのであるから、これ以上のことを詮索する必要はないであろう。

この5章におけるアダムの子のセツの系図の最後は、レメクとその息子のノアの記述である。こうして、ノアが生まれ、次回からノアの物語となるが、現在の人々の状態は、このノアの神話的記述を通して、さらに明確に表現されていくのである。