『創世記』   03 | 本当のことを求めて

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『創世記』   03     2章2節~25節

 

第一日目から第七日目ということ

2章1節には、「こうして、天と地とすべての万象が完成された」とある。このように、神様の天地創造において、神様のわざは、第一日目から第六日目の範囲で完成されていったと神話的に記されているのである。すでに述べたように、聖書の冒頭から2章3節までがひとつの区切りである。

続く2章2節から3節には、「それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである」とある。

この第一日目から第七日目ということについて、既存のキリスト教会の解釈のように、すべて歴史的事実であるとするならば、当然、第七日目があるのならば第八日目もあるはずであり、では今は第何日目になるのかが論じられなければならないはずである。しかし、実際にはそのようなことは論じられていない。また、現在は、神様がすべてを維持しておられるのだというような解釈がされており、それで第八日目以降が説明できていると思われているようであるが、説明になっていないことは言うまでもない。

まず、この第七日目を「聖であるとされた」ということについて解釈するならば、次の通りである。『創世記』の講解の最初から、最も根本的な真理として述べてきたように、神様は絶対的な方である。では、同時に聖なる方であるか、というと、絶対的な神様だけがおられたのでは、「聖」ということは成り立たない。なぜなら、「聖」という言葉は、「区別される」という意味だからである。

また現在、一般的には「聖」という言葉は、「俗」という言葉に相対する言葉とされているが、「俗」とは、人間が神様から離れて汚れてしまった、清らかではない、というような意味があるので、その一般的な意味もここでは当てはまらない。聖書の神話的記述においても、この時点では、人間はまだ神様から離れてはいないので、「聖」と「俗」という概念は成り立たないのである。

神様の存在と同時発生的に、相対的な天地万物の存在が表わされて、初めて「区別」ということが表わされたことは、すでに前回見た通りである。この「聖」ということも、絶対的な神様が相対的な天地万物と区別されている、ということを表現する言葉なのである。

そして、神様がすべてのわざを休まれたということも、相対的次元とは区別されている、ということを表わすものである。つまり、第一日目から第六日目において、相対的な天地万物が創造されたと神話的に表現されているために、絶対的な神様の日も、その第一日目から第六日目と区別されなければならず、こうして必然的に、天地万物が完成された翌日である第七日目が、聖なる日と表現されることとなったのである。したがって、第八日目以降などということは考える必要がない。

またこのことは後の箇所でも述べるが、創造のわざが完成されたとあっても、聖書の記述は、あくまでも現在の人間の状態を説明するための神話であるため、まだこの時点は、現在の人間の状態についての説明の途中と見なければならない。では聖書の神話的表現においては、いつ神様の存在と同時発生的に天地万物および人間が発生したことの表現が完結して、現在の人間の状態の説明が終了するかと言うと、それはまだまだ先のことであり、具体的には、『創世記』11章の前半、つまりいわゆる「バベルの塔」の箇所まで見なければならないのである。

 

人間の原罪についての内容

さて、すでに述べたように、続く4節から2章の最後までの箇所は、特に人間に焦点を当てた創造の神話的記述となる。つまり、人間の創造について詳しく再び記されている、ということである。そしてさらにその内容は、次の3章まで続き、人間がどのように神様から離れて行ったか、ということが記されることになる。いわゆる、人間の「原罪」についての内容である。

この原罪ということについても、あくまでも現在の状態を説明しようとする意図からの神話であり、歴史的事実ではない。そのため、この内容から読み取るべきことは、現在の人間世界の霊的状態が、どのようなものであるのか、ということである。人間の創造当時のことではなく、現在を知るのである。それが神話的内容の正しい読み方である。

 

いのちの息

4節から6節は、細かく見れば、これまでの記述と異なっているように見える箇所もあるが、概略的にここまでの経緯を記していると見れば、そのまま読み進めて良い内容である。

続く7節には、「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」とある。「土地のちり」で造られたのは肉体である。肉体も物質に過ぎないため、同じ物質である土から造られたということは理解しやすい。

そして、「いのちの息を吹き込まれた」という御言葉については、前回の箇所である1章30節に、「また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える」とあることを見る必要がある。つまり、生き物はみな、息をするということから、この「いのちの息」とは、生きて呼吸をしていることを表わすのである。ここから、これは人間に限らず、呼吸をする生物全般に当てはまることと理解しなければならない。

既存のキリスト教会ではこれを、神の霊である聖霊を吹き込まれたと理解する傾向にあるが、この個所をそのように理解することは行き過ぎた解釈である。

 

エデンの園

続く8節から9節には、「神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた」とある。ここから、いわゆる「エデンの園」についての記述となる。上にも述べたように、創造が完成された状態が、この箇所では、このエデンの園として神話的に表現されているのである。

まず先に、続く10節から14節を見ると、このエデンの園に、ピション、ギホン、ティグリス、ユーフラテスの四つの川の水源があるとある。この中のティグリス川とユーフラテス川は、現在でも実際にあり、共にシリアとイラクを流れて合流し、ペルシャ湾に注ぐ川である。この地域は、古代四大文明の一つである古代メソポタミア文明発祥の地ともされていることから、最初の人が置かれた場所と表現されていることも理解がいく。そしてこの箇所は、このように理解するだけで十分である。

では次に、このエデンの園とはどのような状態の園であるかについて知るために、この園の中央に生えているとある「いのちの木」と「善悪の知識の木」について見ることにする。

まず、いのちの木については、次回見る範囲の箇所であるが、3章22節に、「神である主は仰せられた。『見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように』」とあることから、このいのちの木の実を食べると、永遠に生きるようになるということがわかる。そして一方の善悪の知識の木については、17節に、「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」とあることから、この善悪の知識の木の実を食べると、死ぬようになるということがわかる。

エデンの園では、17節の直前の16節に、「神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのままに食べてよい』」とあり、上に見たように、善悪の知識の木からだけは取って食べてはならないとされているところから、この神様の命令を守る限り、人はこのエデンの園では、いのちの木の実を食べて、永遠に生き続けることができることがわかる。つまり、人間はこのエデンの園の時点においては、死ぬ存在ではなかったとされているのである。

この二つの木については、次回にも見るので、ここでは、エデンの園では人は死ぬ存在ではなかった、ということを導き出すためのみ見ることにとどめる。

このエデンの園についての記述は、他のすべての記述と同様、現在の人間の状態を説明するための神話の一部である。その意味から見ると、現在の人間はすべて死ぬ存在なのであるから、このエデンの園の記述も、まだ途中の段階にある内容と理解しなければならない。

15節には、「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた」とあり、ここで人間の創造が一段落しているように見えるが、まだこの時点では男だけであって女は存在しないのであるから、このことからも、まだ現在の人間の状態を説明する内容の途中であるとしなければならない。なお、前回見た1章27節には「男と女とに彼らを創造された」とあるが、すでに述べたように、2章3節と4節の間には、記述の流れに一区切りついており、4節以降は新たに説き起こされている内容であるから、この箇所においては、まだ女は創造されていないのである。

 

助け手を創造する

18節から20節には、「その後、神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。』神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった」とある。

相対的認識主体の人間にとって、その認識対象には名前つまり名称がなければならない。名称がない対象は、認識の対象とはならないため、存在しないことと同じである。言い換えれば、ある対象が人の認識として受け取られた瞬間、人は正式名称が何であるか、などとは関係なく、とにかくその対象物を何らかの名称で呼ぶように習慣付いている。そうでなければ、とても気持ちが悪く落ち着かないのである。たとえば、「あそこに何かある」という場合の「何か」も、立派な名称である。

しかし、絶対的認識主体の神様にとっては、名称は必要ない。名称は相対的存在が他の存在と区別されるために必要なものであり、絶対的次元においては必要ないのである。名称を付けるのは、あくまでも神様ではなく人間である。

そのため、この箇所の神話的記述においては、神様は創造した相対的存在を人間に示し、人間がそれを認識対象とすることができるように、名を付けさせたのである。名称が付けられてこそ、その相対的存在は相対的次元において存在することとなる。したがって、この個所では、生き物だけに人によって名称が付けられたことが記されているが、実は、すべての相対的存在に人によって名称が付けられたはずである。しかし、この個所では、人の「助け手」に焦点が当てられているため、生き物に限られた記述となっているのである。

このように人は、神様によって連れて来られた生き物に名称を付けたが、その中には助け手はなかったとある。そこで神様は、21節から22節にあるように、男を眠らせ、そのあばら骨を一つ取り、その骨から女を造り上げ、その女を男のところに連れて来られた。

こうして男は、23節にあるように、その女を自分自身と同じように受け入れた。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」という言葉は、男女の間に何ら相対的なものが入り込んでいないことを表わしている。この世の常識からすれば、あくまでも男と女は違うわけであるが、この時点での男の認識は、まだ絶対的な神様から離れていないので、相対的な次元よりも、絶対的次元を中心とした認識を優先していた、ということである。

 

エデンの園での人の霊的状態

エデンの園は、いうまでもなく相対的次元なのであるから、そこにいる人間も、相対的存在であり、相対的認識主体である。しかし、神様の命令に逆らう前の人間の特徴として、上に見たように、相対的認識主体でありながら、相対的な次元よりも、絶対的次元を中心とした認識を優先しているのである。相対的存在であっても、意識的でもなく、いわゆる信仰的でもなく、自然と絶対的認識に立って考え行動するのである。

これは現在の人間とは全く違った霊的状態である。したがって、このエデンの園から追放されてこそ、現在の人間の霊的状態となるのである。そのことが、これ以降の神話において述べられていくのである。

こうして、最初の夫婦が誕生した(24節)。そして続く25節には、「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった」とある。男と女ということも相対的な関係である。これももし、相対的な認識に立つならば、あくまでも男と女は区別されなければならない。「恥ずかしい」という感情は、本来、区別されなければならないところ、実際は区別されていないということから生じる。しかし、人は恥ずかしいとは思わなかった。このことも、この時点では、人間は人間同士であっても、相対的な考え方をしていなかったことを表わす。

既存のキリスト教会では、これも歴史的事実と見ているため、たとえば教会学校の教材などにも、最初の男女が裸で生活している様子をイラストで描いたりしている。これこそ、子供に見せるべき姿ではないはずであるが、あくまでも聖書の記述を歴史的事実だとするので、平気でそのような非常識な教材まで作ってしまっているのである。