『創世記』   01 | 本当のことを求めて

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『創世記』   01     1章1節~3節

 

神について論じる必要性

聖書の冒頭の御言葉である『創世記』1章1節は、「初めに、神が天と地を創造した」である。この文の主語は、言うまでもなく「神」である。つまり聖書は、神がいる、ということを大前提として文章が始まっているのである。すでに神様を信じる者ならば、何の抵抗もなく読み進めることができるが、神様を信じていない者にとっては、さっそくこの神という言葉が妨げとなる。そしてこれ以降も、聖書には神様の存在について証明する文などない。

したがって、まずこの神様について論じる必要がある。何よりも最初に、そのことについて述べてみたい。

 

相対的世界

目の前に赤いボールペンがあるとする。そしてもし、この世界に「赤」という色しかなかったならば、この赤という色は存在しないことになる。赤という色は、白や緑という「赤でない色」があってこそ、赤という色が存在することになるのである。同じように、赤いボールペンは、白い消しゴムやガラスのコップという「ボールペンでないもの」があってこそ、ボールペンとして存在することができる。つまり、すべてのものは、「相対的」なのである。相対的とは、「そのものでないものの存在」が前提となって存在するということである。

そしてこのすべてのものの範囲はどこまでかと言うと、現在では宇宙万物ということになる。つまり宇宙万物は相対的世界である。お互いに相対していてこそ、各存在が存在しているのである。

さらに、この相対的世界を一つの世界と考えるならば、その相対的世界に相対する世界がなければならないことになる。なぜなら、相対的世界は相対的なわけであるから、その相対的世界に相対する世界がなければ、相対的世界である宇宙万物は存在できないことになる。つまり、「相対的世界ではない世界」があってこそ、相対的世界が存在できるのである。ではその相対的世界に相対する世界とは何であろうか。

 

絶対的世界

それは「絶対的世界」である。「絶対的」とは、「相対を絶する」という意味であり、まさに相対的世界ではない世界である。そしてさらに一歩進んで考えるならば、相対的世界は、絶対的世界と相対することを条件としてこそ存在できるわけであるが、一方、絶対的世界は、相対的世界と相対することを条件としなければ存在できない世界ではない。絶対的世界は唯一絶対であるからである。

しかし、先に述べた赤いボールペンの場合と同様、絶対的世界しか存在しなければ、絶対的世界も存在しないことと同じになる。ところが、赤いボールペンは相対的存在であるが、絶対的世界は唯一絶対であるため、存在しないことと同じと言っても、存在しないのではない。ここが、絶対的世界が相対的世界と異なっている点である。それは存在しないのではなく、表現されないということである。

そしてこの唯一絶対的な存在が、「神」である。何があろうがなかろうが全く関係なく、唯一独立して存在する方が神様なのである。ところが、上に述べたように、もし神様だけしか存在しなければ、神様自身が表現されない。言い換えれば、存在しているのであるが、表現されないため、存在しないことと同様になってしまうのである。

そのため、神様が存在しているということを表現するため、相対的世界が必要なのである。つまり、神様の存在と宇宙万物の相対的世界は、表裏一体の密接な関係にあるということになる。

 

同時発生的

実は、最初に引用した、聖書の冒頭の「初めに、神が天と地を創造した」という御言葉は、以上のことを一言で述べているのである。「創造した」とあるが、厳密には、宇宙万物は、神様が表現されるために発生したと言わなければならない。神様という存在が表現されることと天地万物は、同時発生的なのである。

創造するとか造るということは、本来、何か材料を持って来て、それによって何ものかを造り出すという意味である。しかし、「初めに」とあるように、その創造の前に何かがあるわけではない。そのため、材料に相当するものは何もない。

この点を、既存のキリスト教会では、「神様は無から有を創造された」と説いているが、それこそ、マジックのようなものであり、既存の教会は、神様をマジシャンとして理解してそれで済ましている。そのようなことは笑止千万であり、単なるごまかしに過ぎない。

 

聖書は神話である

既存のキリスト教会は、聖書はすべて歴史的事実を記していると理解することが正統としている。しかし、聖書において、歴史的事実と認められる内容は、せいぜいダビデ王以降であり、それ以前のすべての記述は、神話的な内容と見なければならない。つまり歴史的事実ではない。

それではそれらは単なる作り話かと言うと、そうではない。人間も言うまでもなく、相対的な存在であり、人間の言葉も相対的である。そのため、絶対的な神様については、相対的な人間の言葉で表現することはできない。しかし、表現できないということで表現しなければ、神様の表現としての相対的世界に生きる人間も、その存在意味を失うのであるから、何とか相対的な言葉で表現しなければならないのも事実である。

もしそのようにするならば、すでに上に記したように、先ずは「絶対的世界」だの「相対的世界」だのという、抽象的な言葉で何とか綴らねばならなくなる。しかしそれでは、誰もがすぐに受け入れられるような文章にはならない。

その点、神話的な内容は、歴史的事実ではないとしても、一応、誰もが読みやすく、受け入れられやすい内容である。いったんそれを受け入れ、神様についての信仰が芽生えるならば、さらにその神話的な内容から、神様の真実を理解できるようになる。つまり、神話的な記述は受け入れられやすい、という利点があると同時に、神様を信じたならば、続いて正しい解き明かしによる理解が必要ということなのである。

このような神話として構成されている聖書の内容を、すべて頭から歴史的事実として受け入れてしまい、それを正統な解釈として済ませてしまったら、その神話に込められている深い意味を知ろうとすることはなくなる。ある程度、その内容を解き明かして、文章の表面に現われていない深い意味が説明されることもあるが、もともと、歴史的事実として認めるということが大前提となっている限り、その解き明かしは徹底されることはない。それどころか、誤った解釈や、上に述べたように、神様は無から有を造り出されたなどという無理のある解釈が生じてしまう。

 

地や水とは

次の1章2節には「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた」とある。

これは、「何もなかった」とあるように、神様が天地万物を創造される前の状態を表わそうとしていることがわかる。ところが、すでに「地」とか「大いなる水」とか「水」とかいう言葉がある。地についても、後の節では、ただ水が退いたならば地が現われているため、あくまでも先に地があったということになる。このように、神様が天地を創造する前に、すでに地や水があった、ということになっており、はなはだしい矛盾が生じることになる。

あるいは、最初に神様は、地とか水を造られた、というならば、そのように記さねばならないはずである。ところが、そのような言葉はなく、また先に次の3節を見ると、「そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた」とあり、既存のキリスト教会では、「神様は最初に光を造られたのであり、それは神様の御言葉によって造られたのである。すなわち神様は、何もないところに、御言葉によって天地万物を造られたのである」と言い、それが正統な解釈とされている。

しかし、聖書を読む限り、それもごまかしであり、無理のある解釈である。上に述べたように、すでにその前に、水や地があるではないか、ということになってしまうからである。このような矛盾については、既存のキリスト教会では触れられていない。つまり見て見ぬふりをしているか、神様は御言葉によってすべてを造られたという先入見によって、見えなくされているかである。

すなわち、これが神話の神話たるゆえんである。神話は理屈ではなく、人の感性や情に訴えるものであり、論理性などない。そのため、何の説明もなく、地とか水とかいう言葉を記しているだけである。

 

神は霊である

この2節の「やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた」という神話的御言葉の真意は、この「神の霊」というところにある。

イエス様は、『ヨハネ』4章24節で「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」とおっしゃっている。つまり、神様は霊なのである。

ではこの「霊」という言葉の意味は何か。それは、「相対的次元にある天地万物とは異なる次元の存在」ということである。相対的な物質を「肉」と表現するならば、まさにイエス様が『ヨハネ』3章6節で「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」とおっしゃっているように、相対的次元のものとはあくまでも区別される絶対的次元の存在を意味するのである。つまり、神様=霊ということになり、特に「霊」という言葉は、相対的な世界と相対するという意味を持っている言葉なのである。

この真理から見ると、聖書に「悪霊」とある言葉は誤訳ということになる。霊はあくまでも神様そのものなのであるから、悪も善もない。聖書の内容から見て、悪霊とは、もと人間であり、その人間が死んで肉体が滅んだにもかかわらず、その人間の魂が、この世にしがみついているものを指すのであり、この世に残留しているのであるから「残留魂」とでも表現しなければならない。

そしてその神様である霊が、大水の上にある「やみ」において動いていた、というのである。これはすなわち、すでに述べたように、最初は神様だけが存在しており、その神様を表現するための相対的世界がまだないために、神様自身も闇の中にただ動いているような状態であった、ということの神話的表現である。言い換えれば、神様だけしか存在しなければ、神様自体も、闇の中にあるように、存在していないことと同様になってしまうのだ、ということを神話的に表現しているのである。これは、実際、神様が天地万物を創造される前は、このような状態で神様は存在していた、という歴史的事実を表わしているのではない。あくまでも、神様の存在と天地万物は同時発生的であり、まず神様が孤独な状態で、闇の中をただ動いていたということはないのである。