『使徒の働き』   40 | 本当のことを求めて

本当のことを求めて

過去世、現世、未来世の三世(さんぜ)の旅路。

『使徒の働き』   40     23章12節~24章15節

 

カイザリヤに向けて出発

ユダヤの宗教的指導者たちの議会においても、パウロに対する正式な判決が引き出せなかったローマの千人隊長は、パウロを兵営の中に留め置くことにしたというところまでを前回で見た。そして、今回の本文の最初の12節には、「夜が明けると、ユダヤ人たちは徒党を組み、パウロを殺してしまうまでは飲み食いしないと誓い合った」とある。パウロは知恵を用いて、ユダヤ人の会議を混乱に陥れ、その場を切り抜けることはできたが、それで問題がなくなったわけではない。どうしてもパウロを地上から抹殺しなければ気が済まない多くのユダヤ人たちが、エルサレムには大勢いたのである。彼らは、次の手段を講じて、断食の誓いを立ててまで、パウロを殺そうとしてきたのである。

それは、15節までの箇所によれば、もう一度、パウロを取り調べるために、ユダヤ人の議会を開くことにして、その場に向かってパウロが兵営を出たところを、約四十人以上の人々が彼を襲い殺害する、というものであった。彼らは、祭司長や長老たちとも協力をして、この計画を実際に遂行できるようにしたのである。

ところが、パウロの姉妹の子、つまりパウロの甥がそれを知り、パウロにそれを知らせた(16節)。このような記述から、パウロは兵営の中にいたとはいえ、比較的自由に動ける状態であったことがわかる。そこでパウロは、百人隊長の一人に願い出て、この甥にあたる青年を千人隊長の所に遣わし、千人隊長もしっかりとこの青年から事実を聞いたと、21節までの箇所に記されている。

そして続く22節から24節には、「そこで千人隊長は、『このことを私に知らせたことは、だれにも漏らすな』と命じて、その青年を帰らせた。そしてふたりの百人隊長を呼び、『今夜九時、カイザリヤに向けて出発できるように、歩兵二百人、騎兵七十人、槍兵二百人を整えよ』と言いつけた。また、パウロを乗せて無事に総督ペリクスのもとに送り届けるように、馬の用意もさせた」とある。

つまり千人隊長は、このままパウロをエルサレムに留めておくのは危険だと判断し、約90キロ離れたカイザリヤにパウロを届けることにした。なぜなら、そのカイザリヤにはローマ総督のペリクスがいたからである。もはや自分の手に負えなくなった千人隊長は、次にローマ総督の手にパウロをゆだねることにしたのである。

それにしても、パウロをエルサレムから運び出すために動員された兵隊は歩兵、騎兵、さらに槍を持つ兵士の合計四百七十人である。それほどの人数が必要であると判断した理由は、千人隊長の目から見れば、エルサレムにいるユダヤ人のほとんどが、パウロを殺害しようとしていると思えたのであろう。それほど、パウロに対するエルサレムのユダヤ人の怒りは激しかったのである。

 

カイザリヤに到着する

そして千人隊長は、ローマ総督へ手紙を書いた。その内容が25節から30節に記されている。最初に「クラウデオ・ルシア、つつしんで総督ペリクス閣下にごあいさつ申し上げます」とあるところから、この千人隊長が「クラウデオ・ルシア」という名前であることがわかる。

この手紙の内容は、これまでのことを簡潔にまとめたものである。自分はパウロを騒ぎの中から助け出し、ユダヤ人の議会にも出頭させたが、彼が訴えられているのは、ユダヤ人の律法に関することで、死罪などに当たることはないとわかったということと、パウロに対する陰謀があるという情報を得たので、総督のもとに送り、そちらで訴えるように言っておいた、ということである。

こうして、兵士たちは夜中に出発し、まずエルサレムから約55キロ離れたアンテパトリスという所まで連れて行き、そこからカイザリヤまでは、七十人の騎兵だけでパウロを護送することにしたと、32節までの箇所に記されている。カイザリヤまでの行程の半分が過ぎたあたりで、兵士の数を大幅に減らしたことは、もうエルサレムのユダヤ人たちから襲われることはない、と判断できたからと考えられる。さすがに、四百人以上の兵隊が最後まで行くということは、かなり困難なことであったのであろう。

そして33節に「騎兵たちは、カイザリヤに着き、総督に手紙を手渡して、パウロを引き合わせた」とある。総督は手紙を読んで、「あなたを訴える者が来てから、よく聞くことにしよう」と言った。このことから、エルサレムの千人隊長は、夜が明けてから、ユダヤの宗教的指導者たちに、パウロをカイザリヤに護送したことと、そこで裁判が開かれるので、幾人かを選んでカイザリヤに行くように命じたことがわかる。

そして、パウロは「ヘロデの官邸」に入れられたと35節にある。この「ヘロデの官邸」とは、ユダヤのヘロデ王がカイザリヤに滞在する時、使用していた建物と考えらえる。したがって、パウロは牢獄のような所に入れられることはなかったのであろう。

 

総督の前での裁判

24章に入り、1節には、五日の後に、エルサレムから大祭司と数人の長老と弁護士が一緒に来たことが記されている。そしてさっそく裁判が開かれ、2節から9節までの箇所には、弁護士がパウロを訴えた内容が記されている。その内容は、今まで見た箇所の事柄と大差なく、パウロは、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こす者であり、ナザレ人という一派の首領であり、神殿を汚そうとしたので捕らえたのだ、とある。

それに対するパウロの弁明は、続く10節から21節の長い箇所に記されている。まずパウロは、自分は礼拝のためにエルサレムに上って来たが、まだ十二日しかたっていないこと、そして、誰とも論争したり、群衆を騒がせたりしたことなどなく、それを見た者もなく、その証拠もないはずだと言った(10節~13節)。

そして14節には、「しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています」とある。

パウロはここでまず、「異端」という言葉を使っているが、これはもちろん、ユダヤ人たちがイエス様の福音に対して、実際に使っていた言葉であるはずである。そもそも異端とは、同じ聖典を使っておきながら、その教義的結論が異なっているものである。したがってまさに、福音を受け入れないユダヤ人から見れば、イエス様を救い主と信じることは異端である。またその逆に、すでに述べてきたように、ユダヤ教の教義的結論、すなわち地上に来られるべきメシヤがイエス様であると信じるユダヤ人にとっては、福音こそユダヤ教の成就となるのである。

続いてパウロは、ユダヤ人たちが異端と呼んでいる教えを「この道」と呼んでいる。福音をこのように表現する箇所は、『使徒の働き』の中で六回記されており、すでに見た箇所にも複数あった。道とは、目的地に導くものである。そのため、他の宗教においても、その教えを道と呼ぶことが多い。福音こそ、人々を本当の目的地である神の御国に導くものなのである。

 

義人も悪人も必ず復活する

そして続く15節には「また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております」とある。しかしこの「復活」こそ、福音の大きな要点であるにもかかわらず、実際、聖書の中で、しっかりと確立された教えとして記されているところは全くない。

他の箇所、たとえば『黙示録』の中では、終わりの日の復活としてこのことを述べているため、義人は復活して天の御国に入り、最後までイエス様を信じなかった、いわゆる悪人は、復活はするが、それはこの世と共に滅ぼされるためのよみがえりと表現されている。そして、多くの箇所にある復活やよみがえりについての記述も、概略的にこれと大差はない。

しかし、『ルカ』20章35節から36節でイエス様が、「次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです」とおっしゃっている御言葉の中の「次の世」「御使いたちのよう」という表現は、とても最後の時に信じる者たちが神の御国に入ることを指しているとは考えられないものである。

そして上にあげた15節の中の「義人も悪人も必ず復活する」という言葉も、単に終末のことを指しているとは考えられない。それは「必ず」という言葉があるからである。そしてそれは、「この人たち自身も抱いている望み」、つまりユダヤ人たちも信じているのであり、それは望みであるという。もちろん、前回見たように、サドカイ人たちは復活を認めていなかったが、多くのユダヤ人と、そのユダヤ人の支持を受けているパリサイ人たちは復活を信じている。パリサイ人たちは、宗教的指導者たちの中では少数派であったが、ユダヤ人の中においては、生きた信仰を持つ者として、敬われていたのである。

 

復活と望み

このように、復活、あるいはよみがえりについての明確な教えが、聖書の中に誰でも同じように解釈できるようには記されていないのである。しかし、これも今まで何度も述べているように、イエス様も、一緒に十字架につけられ、そこでイエス様を信じた者に、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(『ルカ』23:43)とおっしゃっており、パウロも『Ⅱコリント』12章2節後半から4節までで「第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、—それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、—パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています」(パウロはここで、他の人を指すような表現をしているが、パウロ自身を指していることは、多くの聖書解釈家も認めている)とある。

このことから、終末の復活とは別に、その終末に至るまで、「パラダイス」「第三の天」、あるいは『ルカ』20章35節にある「次の世」を「第一、第二、第三・・・」と復活を繰り返す復活があるとすることが妥当であることがわかる。そして今回の本文では、パウロはその繰り返される復活を「望み」と言っていると考えられる。まさに、「義人も悪人も」、つまり「義人」ばかりではなく、この世においては信じないで肉体の死を迎えた「悪人」も、繰り返される復活を「望み」とすることができるのである。

それは、既存の教会が主張しているように、人生は一回きりで、その一回きりの人生で福音を信じた者は天国に、信じなかった者は地獄に堕ちて永遠に苦しむ、などという、矛盾を多く抱えている教えが誤りであることを明らかにする言葉なのである。

次の16節以降もパウロの言葉は続くが、それは次回以降に見る。