『使徒の働き』   36 | 本当のことを求めて

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『使徒の働き』   36     20章13節~38節

 

トロアスからミレトへ

マケドニヤから船に乗り、トロアスに着いたパウロ一行は、日曜日に礼拝をささげ、翌日、出発した。そのことについて13節から14節に「さて、私たちは先に船に乗り込んで、アソスに向けて出帆した。そしてアソスでパウロを船に乗せることにしていた。パウロが、自分は陸路をとるつもりで、そう決めておいたからである。こうして、パウロはアソスで私たちと落ち合い、私たちは彼を船に乗せてミテレネに着いた」とある。

「私たち」とあるように、著者のルカが同行しているため、記述がとても詳しくなっている。トロアスからは、パウロだけが陸路で次の目的地であるアソスに向かい、他の人たちは船で向かったとある。トロアスからアソスまでは約二十キロほどであるので、徒歩で一日の距離である。パウロがなぜ一人だけで陸路を行ったかは不明である。

アソスからパウロ一行は船で南下してサモスに行き、さらに進んでミレトに着いた(15節)。ミレトはエペソより約六十キロ南の町である。つまり、パウロ一行はエペソを通過して行ったのである。その理由について続く16節に、「それはパウロが、アジヤで時間を取られないようにと、エペソには寄港しないで行くことに決めていたからである。彼は、できれば五旬節の日にはエルサレムに着いていたい、と旅路を急いでいたのである」とある。

確かに三年間も留まって伝道したエペソであるから、そこに行けば、また数限りない人々と会わねばならず、かなり時間が取られてしまう。しかし、このままエペソの教会の人々に何の連絡もせず行くこともできない。続く17節に「パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ」とある。直接エペソに行かない代わりに、その各教会の長老、つまり指導的立場にいる人々をミレトに呼び寄せたのである。

 

ユダヤ人にもギリシヤ人にも

18節から35節までの長い箇所において、パウロのメッセージが記されている。まず、18節に「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです」とある。三年間も彼らと共に過ごしたわけであるから、続く19節から20節にあるように、語ることはすべて語ったというほどであったはずである。それは、これも言うまでもなく、平安な中での働きではなく、絶えず「ユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中」のことであった。

続く21節には、「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです」とある。今まで繰り返し述べてきたように、ここに記されている「ギリシヤ人」ということも、完全な異邦人ではなく、ユダヤ教に精通しているギリシヤ人である。そのため、「神に対する悔い改め」ということも、そのまま理解できる。これが、ユダヤ教の神に対して全く知識すらない人に、「悔い改め」と言っても、せいぜい、道徳的な反省という程度にしか理解されない。事実、既存の教会は、日本人のようなユダヤ教を全く知らない人に対して悔い改めを説くために、キリスト教はやたらと人を責める宗教、道徳的完璧さを求める宗教と認識され、敬遠されてきたのである。

まさに、多くの日本人が持っているキリスト教に対する感情は、「敬遠」である。敬遠とは、敬いながらも遠ざけることである。誰でも、道徳的な善を求めることは、悪いことだとは思わない。ただそのようなことを重要視しては、自らの生活においては負担になり、息苦しい人生に陥らせることであると思っている。いわゆる「ほどほど」が良いと思っているのである。そのため、多くの日本人がクリスチャンに対して抱いている感情は、それほど悪いものではない。まさに敬遠なのである。

 

真実の救い

しかし、真実の悔い改めはそのようなものではない。悔い改めと道徳は全く関係ない。そもそも次元が違うのである。パウロがここで「神に対する悔い改め」と言っている通り、それは神に対するものである。つまり、霊的次元に対する悔い改めである。

全く神様に対する知識のない人に、いきなり「霊的次元」などと言っても、もちろん通じるわけがない。しかしそれが、この世の常識である道徳などと全く関係がないということは、積極的に知らせるべきである。一般の人々は、誰であってもある程度の道徳的規準によって縛られている。そしてそこに神様に対する誤解が加わって、自分は道徳的規準によって神様に裁かれると思っている。さらに上に述べたように、クリスチャンたちもその誤解を助長するようなことを示している。それでは、誰も神様に目を向けようとするわけがない。

霊的に正しい意味で「神様の赦し」というならば、それは道徳的規準によって自らをいじめ、他を非難していたことからの解放である。道徳的縛りなどは、全く神様の意にも介していないことであり、神様はそれらとは全く関係のない次元から、すべての人々に目を向けておられ、誰でもご自身のところに引き寄せられ、受け入れようとされているのだ、ということを知るべきである。

そしてそれが目に見える形によって表わされたものが、イエス様の十字架なのである。それが福音なのである。パウロが「私たちの主イエスに対する信仰」と語っている信仰は、すべての人々を霊的次元によってそのまま解放する。そこに何も駆け引きはない。そのまま、イエス様を信じる者は神様に受け入れられるのである。これほど単純で、これほど真実の救いはないのである。

このようなことを言うと、必ず「それでは信じれば何をしてもいいのか」という言葉が浴びせられる。しかしそれは真実の神様を知らない者の言うことである。信じ救われた者は、霊的次元によって導かれていく。それは体験であり、言葉で表現できない事実である。信じた者も、このような真実の神様を知らない者からの言葉を恐れて、せっかく解放されておきながら、新たなルールのようなものを作ってはならない。しかし、実際、そのようなルールを作って、これが地上における神の国の決まりだ、などと公言する者もいるのが現実である。

 

走るべき行程を走り尽くした

次の22節から25節までパウロは、これからエルサレムに上りそこで自分は捕らえられる、そのためもうあなたがたに会うことはないであろう、ということをはっきり言葉にしている。そして、それは聖霊の示しであり、自分はいつ命を失っても少しも惜しいとは思わないと述べている。

何よりも、それは「自分の走るべき行程を走り尽くした」という確信があるからであった。そして特に三年間滞在したエペソでは、27節に「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいた」とあり、また31節に「私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来た」とあるように、すでに多くのメッセージを語ることができたのである。このように、自分自身でも満足できるパウロの福音に対する働きそのものが、これ以降の彼の大胆な行動を支えたのであった。

 

責任がありません

しかし26節では、「ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません」と述べている。この言葉については、信じ救われた者は、まだ信じていない人々に対する責任があるのだ、と誤って解釈してはならない。パウロの言葉の中には、このように、「責任」「負債」という言葉を使って、人々に福音を伝えなければならない、という切迫した印象を与えるメッセージが多くある。しかし、まずこれは、パウロの個人的な状況からの言葉であると知らねばならない。

パウロのように、教会を迫害し、多くの信じる者たちを死に追いやった者が、その後救われたという者は、そう多くいるはずがない。何よりもパウロ自身、当然それをよく身にしみて感じており、どうしても、神様から受けた恵みを、純粋に恵みとして自身に表現することは困難だったのである。もちろん、救いは恵みであることをパウロは繰り返し強調しており、それは真理である。しかし、パウロも人間であり、余りにも大きな恵みを受けてしまった、という肉的な良い意味での圧迫感は否めなかったはずである。それが、このように極端な言葉として発せられ、また後の教会に大きな誤解を与えるようになってしまっているのである。

救われた者は、負債や責任など、もちろん負わされているわけがない。少しでもそのようなものがあるとしたら、それは恵みではなく福音ではなくなる。そのため、むしろ負債や責任という言葉は、福音を語るにあたっては決して使ってはならない言葉なのである。パウロは人間的な思いから、そのような言葉を発してしまっているということは、大変残念なことと言わざるを得ない。

 

御霊と御言葉

続く29節から30節は、教会の監督について述べられている。イエス様を信じ救われたと言っても、この世にある限り、誤った教えに個人も教会もさらされている。そのようなものから守るために、教会に指導者が立てられているのである。パウロは、その誤った教えを「凶暴な狼」「いろいろな曲がったこと」と表現している。

ユダヤ人などからの迫害は、明らかに避けたり退けたりするべきものであり、ある意味、わかりやすい。それは肉的次元のものだからである。しかし、目に見えない教えの次元、つまり霊的次元のものは、それを判別するためには御霊の力によらねばならない。教会の指導者は、その御霊の力によって監督するのである。そのため、パウロは「聖霊は(中略)あなたがたを群れの監督にお立てになったのです」と語っているのである。

このように、教会の監督、つまり現在では牧師などの指導者の役割は、教会が誤った教えに侵されないようにすることなのである。しかしこのことも既存の教会では誤って考えられており、牧師は教会員の面倒を見て、人々が快適に教会生活を送れるよう、個人個人に心を配る者だとされている。そしてそれに合わなければ、教会員が教会から指導的立場の者を追い出す、ということが行なわれている。全く嘆かわしい事実である。

続いて32節でパウロは、「いま私は、あなたがたを神とその恵みのことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです」と述べている。御霊は車に喩えると、車体を前進させる燃料のようなものであり、御言葉は原動機類に相当する。どちらもなくては成り立たないものである。そして神様は、御言葉のある所に御霊を注がれ、御霊のある所に御言葉の正しい解釈を与えられる。

このように、御霊と御言葉は不可分である。他の宗教にも真理はあるが、創造主なる神様の御霊による教えは御言葉である。その御言葉とは、地上に来られた神の御子なるイエス様の御言葉を中心としなければならない。この御言葉の正しい解釈によって、他の正しい宗教の中にある真理も知ることができる。そうすることによって、いたずらに他の宗教と対立することなく、またあらゆる宗教に翻弄されることなく、どこにおいても福音を伝えることができるのである。

最後にパウロは、自分は金銀などむさぼらず、自分で働いてまでして福音のために進んできたことを述べ(33節~35節)、そこにいる人々と共に祈った(36節)。パウロはすでに「もう二度と私の顔を見ることがないでしょう」と言っているので、当然人々は心を痛め、声をあげて泣き、別れを惜しみ、船まで見送ったのであった(38節)。