第1シーズンの製作された18ヶ月の間に私生活では散々だったジェリーは遂にシルヴィアと離婚することで解決(?)した。
その後、この第1シリーズが製作終了後間もなく新たなるプロジェクトに着手するなど変わらず多忙な毎日であった。
そのプロジェクトとはジョージ・ハイネマンが考案したNBCの教育番組「SPECIAL Treat」の特別番組の6話分のうちの1話だったのだがジェリーが任されたのはアインシュタインの相対性理論をテーマにした作品だった。
今までこの種の科学番組を製作したことのないジェリーはアインシュタインの研究に関して多くの時間を費やしたという。スタッフとキャストは「スペース1999」のメンバーがほぼそのまま参加しエド・ビショップがナレーションを担当した。
これは後にパイロット作品の「THE DAY AFTER TOMORROW」としても使用された。
この作品の打ち上げパーテイ-の時に出会った女性が後の夫人となるメアリーである。
さて話は戻して「スペース1999」の第1シリーズはルー・グレイトを窮地に追い込んだ。
アメリカのネットワークから作品そのものの高い評価に反し放送の日程などの話し合いが決着しなかったのだ。
第1話の「人類の危機!宇宙基地大爆発」は1975年9月4日にATV中部地方で放映され本国では多くのファンを獲得したにも関わらずアメリカのネットワーク局から作品の購入を拒否される結果となった。しかしである。
ITCがネットワーク販売の機会が途絶えたわけではないと判断したのである。これによって幸いにもジェリーは続けて第2シリーズの製作も可能となった。
この目的達成が出来ずにマンデルもまたある方法をとった。それは各地方局に作品を販売する方法で1大キャンペーンを始めた。
結果は成功し155もの都市への販売に売れた。この数字はアメリカの家庭のテレビの98パーセントを意味し自らネットワークを作り上げたのであった。
そして第2シリーズにおいてよりアメリカ向けの内容にすべく物語の構成を変更し多くのアメリカ人脚本家を起用するようにジェリーに命じた。

第1シリーズ(シーズン)の製作は、親会社ITCから絶大な信頼を寄せているレイ・オーステイン、チャールズ・クライトン、前作「謎の円盤UFO」でアンダーソン作品に参加したデヴィッド・トンブリンなどを含む5人の監督が中心となって撮影は進められた。
また脚本家については、全体を監修する脚本コンサルタントのクリストファー・ペンフォードが多数の脚本家を採用した。
彼はジェリーが1973年に出会ってから「UFO2」の脚本を支援してもらうために彼を雇っていた脚本家である。
ペンフォード以外でこのシリーズの専属脚本家は彼が推奨したダブリン生まれの劇作家、ジョニ-・バーン、そしてITCサイドで推薦したアメリカ人のエドワード・ディ・ロレンツオである。
時としてアンソニー・テーピロフのような外部スタッフが書く場合もあるがその時は決まってペンフォードが書き直すことが多かったという。
というのも外部スタッフは作品の基本設定も知らずに書くケースが多いためにシリーズ構成に破綻をきたすからだった。
さて音楽に関して第1シリーズは久しぶりにバリー・グレイが担当することになったが音楽協力としてヴィック・エムルズが参加することになった。彼は1970年に「イエロー・リバー」でナンバーワンヒットを記録したポップ・ミュージシャンだったがバリーグレイに雇われて「スペース1999」に参加することになった。
これにも訳があって実は彼はシルヴィアの娘であるデイーの夫だったのだ。そこでシルヴィアは娘の頼みを聞き入れてジェリーに頼んだのだろう。
バリー・グレイにしてもいい顔はしなかったが仕方なく採用したと思われる。
だが、これもオーケストラとポップミュージックとの水と油の関係ゆえか最小限度に留まる程度だった。それくらいにこの作品でのバリー・グレイのオーケストラの力は圧倒的だったのだ。
しかしこれがバリー・グレイがアンダーソン作品に限らず映像作品に作った最後の作品となった。(後に1981年にアメリカでアンダーソン作品の再編集版のテレビスペシャルをエイブ・マンデルが製作するのに新規にバリーは作曲している。)
キャストに関してバーグマン教授を演じたバリー・モースはITCの専属俳優で以前「逃亡者」でジェラード警部を演じていたがジェリーは気に入っていたのでこの作品に起用したという。
この作品はジェリーとシルヴィアがプロデユーサーとして参加しているがこの時二人の関係は最悪の一途を辿ることになりプライベートでも口論が絶えなかったという。
打ち上げパーテイ-の時、それが最高潮に達し遂に二人は離婚することになってしまった・・・・。



更に乗組員がイーグル号のフライトデッキに立つシーンはイーグル号のカラースチール写真を1.8メートルまで拡大し窓の部分をくり抜いてコクピットセットとの距離を合わせるために二人の乗組員の俳優を6メートル後方に立たせて撮影が行われたのであった。
そんな撮影の最中だった1973年の秋、エルストリースタジオが閉鎖の危機に直面していた。ある朝、ジェリーがスタジオに行くと、スタジオ閉鎖を阻止するために組合の人間が表門にピケを張っていたことがあった。
だが、ジェリーは多忙でそこまでは考えが回らなかった。そこでジェリーは撮影スタッフに組合の人間が帰った夜にエルストリースタジオから撮影機材などの荷物を車に積んで次の撮影拠点であるパインウッドスタジオまで運ぶ算段をした。しかしこれはACTT(映画テレビ技術者協会)からブラックリスト指定のプロダクションにされてしまう羽目になった。
エルストリースタジオを放棄した理由からである。
これにジェリーは組合員と昼食時間を利用して会合を開き新作の撮影には大きなスタジオと多数のスタッフが必要ということでパインウッドに移る必要があったという言い分を組合員に話した。その結果、組合員はジェリーの味方となりブラックリストから除外されることとなったのである。
かくて、更なる危機を乗り越え作品製作は進んだ。
ブライアン・ジョンソンが特撮シーンを撮影していた11月5日に続いて、アメリカ人監督であるリー・H・カッツィンによる第1話「TURNING POINT」の撮影が12月3日から始まった。
尚このタイトルは撮影終了時点で「人類の危機!宇宙基地大爆発(オリジナルタイトル  BREAKAWAY)」と改められた。
リーの印象はアメリカオフィスでは最高の監督だという評判があったという。だが、第1話の撮影スケジュールは10日だというのに日数と予算をオーバーした上、結果的には作品の出来は二時間という長さで酷い出来になってしまった。
編集が終わりジェリーにフィルムを渡すとリーは帰国してしまったのでジェリーは仕方なく完成した第1話のフィルムをアメリカオフィスに送りエイブに意見を求めた。
だがこれはアメリカのエイブをしても出来の酷さには絶句してしまい逆にジェリーに助けを求めたほどだった。そこでジェリーは自ら訂正を行い3日以上かけて追加と修正を施しきちんとした1時間の作品に仕上げた。
そしてその新しいバージョンの第1話のフィルムコピーを送るとエイブから賛辞の言葉がジェリーのもとに贈られるのだった。
こうして「スペース1999」の第1話は様々な受難の末、形になった叙事詩として完成したのである。