モスラMOTHRA(1961)
解説
「ゴジラ」等の特撮映画は国内のみならず海外にも順調に好調な成績を重ね1958年の「大怪獣バラン」に至って海外からの受注というまでに評価を上げた円谷監督作品。ここで「宇宙大戦争」に続きコロンビア映画から怪獣映画の受注があり東宝では前作「バラン」ではモノクロだった怪獣映画をカラーワイドで製作するという方針(例外「ラドン」はカラーであったもののワイド画面ではなかった)を立て更に従来では怪獣映画といえば男性が見る際物的なものというイメージを払拭するために女性にも楽しめ尚且つ子供にも楽しめる作品という企画の為に(怪獣映画といえば子供向きといいたいところだがこの時代にはまだそんな概念などなくどちらかといえばお化け映画のような下手物扱いの作品として見られていた)ニュータイプの怪獣映画を作るということでこれまでの怪奇探偵小説の作家である香山滋や黒沼健ではなく純文学の第1人者である堀田善衛、福永武彦、中村真一郎を起用したのである。ところで企画は昭和35年の中で既にあり当初は「モリス」というゴジラのような作品のようだったがこの後、蛾の怪獣に方向転換したようである。これは多分このままの企画ならゴジラの亜流でしかないと判断し没にされたようであった。(従来の場合、「ラドン」のメガヌロンを除き皆爬虫類だった)それに女性も対象にしている関係上、それではまずいということもあったのだろう。「モスラ」のデザインが蝶や蛾のイメージなのは華麗なる怪獣にしたかったようである。更にこの作品の音楽は従来の伊福部氏ではなく歌謡曲「君の名は」や戦争映画「太平洋の鷲」の古関裕而が担当し幻想的な響きを聞かせてくれる。これには深い意味はなく伊福部氏は歌謡曲のような歌の作曲は不得手だったのでこの映画では断ったようである。それにこの映画では小美人の役で渡辺プロの歌手ザ・ピーナッツが出るので歌謡曲に造詣の深い古関氏が起用されたのである。
さて本編の脚本は「バラン」に続いて関沢新一氏が担当しており前作「バラン」ではまだ堅い作風だったのだがこの作品からは明るく楽しい作品ということで関沢氏の作風である洋画的な明るい作品という本領が発揮された作品となり登場人物が実に活き活きとしている。これに促して本編監督の本多氏もまたまるで幻想的ミュージカルのような感じで楽しい映画ということを楽しんで演出しているようだ。特撮の円谷監督も合成シーンも多用し更に大規模な予算を投入しミニチュアも大型化、「ラドン」を凌ぐパノラマセットとなった。殊にこの映画では舞台が広範囲に亘るので(インファント島、渋谷周辺、ダム、東京タワー周辺、ニューカークシテイー周辺)それだけの種類のミニチュアタウンが必要となったわけだ。それに主役のモスラも卵から幼虫、そして成虫となる変化する怪獣という設定なのでこれもまた多種類のものが用意されることとなった。まず、卵は通常のものと幼虫が誕生する予めひびのあるもの。幼虫は海上を航行する2メートルのもの、ロングで使用される1メートル80センチのもの、誕生シーンに使用される中に手を入れれるハンドマペットのもの、そして怪獣の縫いぐるみ(着ぐるみ)史上最大の8メートルものが用意され、また成虫についてもロングシーンの小型のものや空中シーンや空港に降下する中サイズのもの(これは額に黄色い毛があるので容易にわかる。トップ写真参照。尚、この額に毛があるのは小サイズとこの中サイズのみである。)そして飛行シーンのアップや空港でのアップに使用された大サイズ(巨大に作られ額には毛がない)が使い分けられて効果を上げている。更にこの作品では過去に例のないほどに合成が多用されている。ミニチュアの街で逃げまとう群集、身長30センチの小美人という従来の合成とは逆に小さいものを見せるシーン、洞窟内の卵と踊り狂う島民との一体化のシーン、そしてダムのシーンでのシークエンスである橋に置き去りにされた赤ちゃん、だが、ダムがモスラによって破壊され洪水が橋に迫る!そのピンチにフランキー堺が赤ちゃんを助けるといったシーンは合成が劇中での効果として本編と一体化した特撮史上残るシーンであった。
この映画は陽性で明るい作風なのだが初めてここで世界二大国家であるアメリカとロシアにさりげない批判を持ちかけたのである。(そして反核というテーマも)以前の「ゴジラ」では純粋に科学の誤使用と人間の傲慢さが自然の怒りを買ってしまうという作風だった。そしてその傲慢さを表現するために当時人類最大の力(人間が万物の霊長という傲慢さの象徴)として核兵器とその使用による放射能の自然ばかりか人類に及ぶ影響の恐怖、そして使うべきでない力を手に入れた人類によって被害を被った全ての動物、植物の人類に対する怒りとして覚醒させられたゴジラという設定だった。その続編である「ゴジラの逆襲」ではこのようになってしまった世界に対し人類がどう対処しどうこの自然神を封印するか(少なくとも殺す発想には見えなかった。抹殺する武器が皆無であったとしてもだ。)という観点。「ラドン」では早くも人間によって環境を破壊された代償として起こった地球温暖化という発想によって生まれるべき存在でない巨大生物として設定されたラドン、そしてそうも判っていながらもラドンを殺すしかなかった人類ということで哀愁を感じさせたラストシーン。そして「バラン」ではタブーを犯す人間によって安住の地を追い出され爆薬で殺される運命にあう爬虫類であるバランというようにこれまではそれほどアメリカに対する批判は回避すべく製作されたのだが(もっとも輸出産業である前提で「~逆襲」以降の作品は製作されたのだが・・・・)この作品では弱小民族の怒りというテーマである以上は大国に批判の目がいってしまう関係か初めてここでこのようなメッセージが出せたのだ。しかしこれはコロンビア映画によって配給されたときに皮肉にもアメリカのファンによってワースト映画にされてしまった。海外に触れたところでここで海外版について少し解説したい。本作品は前出のようにコロンビア映画によって海外に配給され世界同時公開という触れ込みで製作されたのだが実際は英語版製作のために翌年1962年の夏まで延期された経緯があるので準備が万全なら画期的だっただけに残念である。(本作品の場合、従来では海外によって追加撮影されたシーンが挿入され尚且つ音楽も一部を除いてオリジナル版は使用されないといった海外版という別の作品に改悪されるのだが幸いにも本作は時間が短縮された以外はほぼオリジナルに忠実だった。)またこのような経緯をもったために製作するほうは大変だったようで本来ラストは国内で終わらせるはずだったのがニューヨークのシーン(つまりニューカークシテイー)を挿入して欲しいというコロンビア映画の要請であのようなラストになったのだ。しかしこれは原作、シナリオ第1稿で既にあったので戻されたとでもいうべきだろうか。(このラストが没になったのは予算の関係である。で、決定されたのは国内で撮影可能なラストにされたというわけだ。余談だが原作ではニューワゴンシテイーであった。それに2大国家の合成でつけられたというロリシカ国は当初はロシリカという露骨なものだった。)更にそんな状況の為に特撮ではなお大変になってしまいラストはゆとりのない製作期間であったためにニューカークシテイーのミニチュアが多少雑なものとなってしまったのは残念としかいいようがなかった。然し、現在の作品よりも精巧に作られており(特撮シーンのデイテールも)円谷監督の底力を見せ付けたのだ。これは黎明期での出世作品である「ハワイ・マレー沖海戦」での状況を味わった要請による追加撮影を経験したためかはたまた特撮のパイオニアであることによるプロ意識か定かではないが見事に作品を完成させたのは現在の作り手も見習うべきだろう。(特にラストを放棄した「エヴァ」を監督した庵野監督は・・・・。それと敢えてラストを曖昧にしている作り手は・・・・。完結篇で明らかに続編が作れる状況にしそれをお洒落だと錯覚している作り手は・・・・。)
解説
「ゴジラ」等の特撮映画は国内のみならず海外にも順調に好調な成績を重ね1958年の「大怪獣バラン」に至って海外からの受注というまでに評価を上げた円谷監督作品。ここで「宇宙大戦争」に続きコロンビア映画から怪獣映画の受注があり東宝では前作「バラン」ではモノクロだった怪獣映画をカラーワイドで製作するという方針(例外「ラドン」はカラーであったもののワイド画面ではなかった)を立て更に従来では怪獣映画といえば男性が見る際物的なものというイメージを払拭するために女性にも楽しめ尚且つ子供にも楽しめる作品という企画の為に(怪獣映画といえば子供向きといいたいところだがこの時代にはまだそんな概念などなくどちらかといえばお化け映画のような下手物扱いの作品として見られていた)ニュータイプの怪獣映画を作るということでこれまでの怪奇探偵小説の作家である香山滋や黒沼健ではなく純文学の第1人者である堀田善衛、福永武彦、中村真一郎を起用したのである。ところで企画は昭和35年の中で既にあり当初は「モリス」というゴジラのような作品のようだったがこの後、蛾の怪獣に方向転換したようである。これは多分このままの企画ならゴジラの亜流でしかないと判断し没にされたようであった。(従来の場合、「ラドン」のメガヌロンを除き皆爬虫類だった)それに女性も対象にしている関係上、それではまずいということもあったのだろう。「モスラ」のデザインが蝶や蛾のイメージなのは華麗なる怪獣にしたかったようである。更にこの作品の音楽は従来の伊福部氏ではなく歌謡曲「君の名は」や戦争映画「太平洋の鷲」の古関裕而が担当し幻想的な響きを聞かせてくれる。これには深い意味はなく伊福部氏は歌謡曲のような歌の作曲は不得手だったのでこの映画では断ったようである。それにこの映画では小美人の役で渡辺プロの歌手ザ・ピーナッツが出るので歌謡曲に造詣の深い古関氏が起用されたのである。
さて本編の脚本は「バラン」に続いて関沢新一氏が担当しており前作「バラン」ではまだ堅い作風だったのだがこの作品からは明るく楽しい作品ということで関沢氏の作風である洋画的な明るい作品という本領が発揮された作品となり登場人物が実に活き活きとしている。これに促して本編監督の本多氏もまたまるで幻想的ミュージカルのような感じで楽しい映画ということを楽しんで演出しているようだ。特撮の円谷監督も合成シーンも多用し更に大規模な予算を投入しミニチュアも大型化、「ラドン」を凌ぐパノラマセットとなった。殊にこの映画では舞台が広範囲に亘るので(インファント島、渋谷周辺、ダム、東京タワー周辺、ニューカークシテイー周辺)それだけの種類のミニチュアタウンが必要となったわけだ。それに主役のモスラも卵から幼虫、そして成虫となる変化する怪獣という設定なのでこれもまた多種類のものが用意されることとなった。まず、卵は通常のものと幼虫が誕生する予めひびのあるもの。幼虫は海上を航行する2メートルのもの、ロングで使用される1メートル80センチのもの、誕生シーンに使用される中に手を入れれるハンドマペットのもの、そして怪獣の縫いぐるみ(着ぐるみ)史上最大の8メートルものが用意され、また成虫についてもロングシーンの小型のものや空中シーンや空港に降下する中サイズのもの(これは額に黄色い毛があるので容易にわかる。トップ写真参照。尚、この額に毛があるのは小サイズとこの中サイズのみである。)そして飛行シーンのアップや空港でのアップに使用された大サイズ(巨大に作られ額には毛がない)が使い分けられて効果を上げている。更にこの作品では過去に例のないほどに合成が多用されている。ミニチュアの街で逃げまとう群集、身長30センチの小美人という従来の合成とは逆に小さいものを見せるシーン、洞窟内の卵と踊り狂う島民との一体化のシーン、そしてダムのシーンでのシークエンスである橋に置き去りにされた赤ちゃん、だが、ダムがモスラによって破壊され洪水が橋に迫る!そのピンチにフランキー堺が赤ちゃんを助けるといったシーンは合成が劇中での効果として本編と一体化した特撮史上残るシーンであった。
この映画は陽性で明るい作風なのだが初めてここで世界二大国家であるアメリカとロシアにさりげない批判を持ちかけたのである。(そして反核というテーマも)以前の「ゴジラ」では純粋に科学の誤使用と人間の傲慢さが自然の怒りを買ってしまうという作風だった。そしてその傲慢さを表現するために当時人類最大の力(人間が万物の霊長という傲慢さの象徴)として核兵器とその使用による放射能の自然ばかりか人類に及ぶ影響の恐怖、そして使うべきでない力を手に入れた人類によって被害を被った全ての動物、植物の人類に対する怒りとして覚醒させられたゴジラという設定だった。その続編である「ゴジラの逆襲」ではこのようになってしまった世界に対し人類がどう対処しどうこの自然神を封印するか(少なくとも殺す発想には見えなかった。抹殺する武器が皆無であったとしてもだ。)という観点。「ラドン」では早くも人間によって環境を破壊された代償として起こった地球温暖化という発想によって生まれるべき存在でない巨大生物として設定されたラドン、そしてそうも判っていながらもラドンを殺すしかなかった人類ということで哀愁を感じさせたラストシーン。そして「バラン」ではタブーを犯す人間によって安住の地を追い出され爆薬で殺される運命にあう爬虫類であるバランというようにこれまではそれほどアメリカに対する批判は回避すべく製作されたのだが(もっとも輸出産業である前提で「~逆襲」以降の作品は製作されたのだが・・・・)この作品では弱小民族の怒りというテーマである以上は大国に批判の目がいってしまう関係か初めてここでこのようなメッセージが出せたのだ。しかしこれはコロンビア映画によって配給されたときに皮肉にもアメリカのファンによってワースト映画にされてしまった。海外に触れたところでここで海外版について少し解説したい。本作品は前出のようにコロンビア映画によって海外に配給され世界同時公開という触れ込みで製作されたのだが実際は英語版製作のために翌年1962年の夏まで延期された経緯があるので準備が万全なら画期的だっただけに残念である。(本作品の場合、従来では海外によって追加撮影されたシーンが挿入され尚且つ音楽も一部を除いてオリジナル版は使用されないといった海外版という別の作品に改悪されるのだが幸いにも本作は時間が短縮された以外はほぼオリジナルに忠実だった。)またこのような経緯をもったために製作するほうは大変だったようで本来ラストは国内で終わらせるはずだったのがニューヨークのシーン(つまりニューカークシテイー)を挿入して欲しいというコロンビア映画の要請であのようなラストになったのだ。しかしこれは原作、シナリオ第1稿で既にあったので戻されたとでもいうべきだろうか。(このラストが没になったのは予算の関係である。で、決定されたのは国内で撮影可能なラストにされたというわけだ。余談だが原作ではニューワゴンシテイーであった。それに2大国家の合成でつけられたというロリシカ国は当初はロシリカという露骨なものだった。)更にそんな状況の為に特撮ではなお大変になってしまいラストはゆとりのない製作期間であったためにニューカークシテイーのミニチュアが多少雑なものとなってしまったのは残念としかいいようがなかった。然し、現在の作品よりも精巧に作られており(特撮シーンのデイテールも)円谷監督の底力を見せ付けたのだ。これは黎明期での出世作品である「ハワイ・マレー沖海戦」での状況を味わった要請による追加撮影を経験したためかはたまた特撮のパイオニアであることによるプロ意識か定かではないが見事に作品を完成させたのは現在の作り手も見習うべきだろう。(特にラストを放棄した「エヴァ」を監督した庵野監督は・・・・。それと敢えてラストを曖昧にしている作り手は・・・・。完結篇で明らかに続編が作れる状況にしそれをお洒落だと錯覚している作り手は・・・・。)