さて、当初の設定では時代設定を1985年とし、その頃地球はアルファケンタウリの抗争に巻き込まれた。彼等エイリアンは高度な文明を有していた。しかし、彼等は地球の汚れた大気では呼吸できないのだ。では何故、そうまでして地球に来るのだろうか?

それは彼等は子孫を残せなくなってしまった体のために寿命こそ延びてはいるが肉体の衰えに対する機能不全はどうすることも出来なかったためだった。そこで彼等は、地球人の臓器を奪うという目的で地球に来ているわけである。

このエイリアンの暴挙とでもいうべき来襲に対し地球防衛機構「UFoeDO(未確認飛行物体防衛機構)」が設立された。これはペンタゴン(アメリカ国防総省)と同様の機密性の高い組織である。

この防衛機構の防衛設備はSIDと呼ばれるコンピューター衛星で宇宙人の侵略の警告を促す。そして、エイリアンの侵略が探知されると月面基地ムーンベースにメッセージが来ると司令官は迎撃戦闘機インターセプターを出撃させる。このインターセプターは常に発進体制が整っている。

と、ここまで書いたところで設定的には完成作品とさほど変更がなされておらずほぼこの形で映像化されている。ただ組織の名称がUFoeDOからSHADOに、時代設定を1985から1980年へと若干の変更はされている。

第一話の脚本は前述したとおりジェリーとシルヴィアが執筆しそれをトニー・バーウィックと「ドッペルゲンガ―」の脚本家であるドナルド・ジェームズが形にしたのであった。

ジェリーにとって「クロスロード・トウ・クライム」以来の監督作品だっただけにキャステイングに関しては俳優陣の結束の固さをイメージしてのキャステイングをし、主役のストレイカー司令官とフリーマン大佐は「ドッペルゲンガ―」でも出演していたエド・ビショップとジョージ・シーウェルが選ばれた。特にエド・ビショップに関しては「キャプテンスカーレット」以来の付き合いもあって選定された。他のキャストにはスカイダイバー艦長のカーリン大佐に元テレビアナウンサーのジョン・ケリーが、ムーンベース指揮官のデシ-カにはフランコ・デローサがそれぞれ選ばれた。だがジェリーは撮影当初からとてつもない財政難になることは予想していたという。SF作品には莫大な費用のセットの予算がかかるということが目に見えていたからだった。

そこでジェリーは本部を映画会社の地下に置くというアイデアを採用しムーンベースのセット等をメインのセットに予算をかけ、その他の登場人物の家やオフィスなどはロケ撮影などで時代がわからないような場所で行われた。

しかし、それにも関わらずトラブルも発生した。まずはカーリン大佐役のジョン・ケリーがアクションが出来ずに降板し代わりにダンサーのピーター・ゴーテイノに変更、ムーンベース司令官のデシーカもまた演技的に今一つだったためか降板させられ代わりにムーンベース隊員の女性隊員役であったガプリエル・ドレイクを昇格させることでどうにか難を逃れた。

しかし、それにも関わらずトラブルは続いた。

 



 

 

 

 

 




UFO(謎の円盤UFO 1970)



解説

「ロンドン指令X」を打ち切りの形で終了してしまい、尚且つ「サンダーバード」等のスーパーマリオネーション作品も再放送ラッシュになってしまった状態に遂にルー・グレイトはジェリーに対し人形ではなく人間の俳優によるドラマの製作を依頼する。その頃、ジェームズボンド映画の企画脚本を執筆していたジェリーはそれと平行して新作のテレビシリーズの企画を考えていたがその作品が遂に人形劇ではなくていよいよライブアクションの作品になろうとは思わなかったろう。

ジェリーにとっても前作の「ドッペルゲンガ―」と「ロンドン~」が完成度の満足さに対して不本意な成績に終わってしまってしかも「ドッペルゲンガ―」の後、映画製作の準備作品も頓挫され(この中には後に「007ムーンレイカ‐」となった企画もあった。)だけに久しぶりのライブアクション作品の話は歓迎すべき出来事だった。

その頃、センチュリー21では「ロンドン~」の打ち切りですっかり勢いを失っており、スターリングロードスタジオが1969年に閉鎖されたとき、それが決定的になってしまい多くの人形師がリストラにあった。そして商品化権が倒産あるいは合併を強いられた時期だっただけに企画が実現しなおかつ人間が主役のドラマの話は感慨深いものだった。

さてジェリーは今度の作品を臓器移植手術のアイデアと当時話題になっていた未確認飛行物体(UFO)をテーマにした。対立関係が必修と考えたジェリーは当然侵略物になってしまうわけであるが、ジェリーはこのエイリアンが地球に来る目的の理由として臓器移植のアイデアとして使うことにした。こうすることで理由づけが出来ると思ったわけである。

さて、作品の時代設定をどうするかだが、今度の作品は従来のような21世紀の話ではなく近未来でしかも製作時期からさほど遠くない1985年に定めた。これは予算の関係もあるのだろう。こうしてトニー・バーウィックと共同で脚本を執筆し遂に第1話の台本が完成した。そしてこの作品をジェリー自身が監督することになったのだ。


「新しき土」(1937年 Die Tochter Des Samurai)




1935年、日本のJ.Oスタジオとドイツの映画会社であるテラフィルムとの間に 合作映画の企画が起こった。
日本精神の崇高さを日本、ドイツ両国に 伝えるというのが本作品の企画意図だったのである。
これは裏では日独親和工作がドイツとの合作を導き作られたとも無縁ではなかった。
山岳映画の巨匠であるアーノルド・ファンク監督が翌年の2月にマルセーユを 出港し約1ヶ月かけて神戸に入港しすぐに京都の日活撮影所で山中貞夫監督作品のセットを見学した。
そこでファンク監督は日本の風土や日本映画を研究してから軽井沢でシナリオの執筆に取り掛かったのが 本作品である。
当初、本作品のタイトルは「東の風・西の風」だったが間もなく「新しき土」に変更し 共同監督には伊丹万作を説得して決定し、早川雪洲、小杉勇、後に伝説的大女優となる原節子、市川春代の配役で 6月より製作を開始した。
ところがファンク監督の日本観と日本サイドとの見解が隔たりがあったのでファンク版の「サムライの娘」と 伊丹版の2種類のバージョンを作ることとなったのである。
ロケ地は富士山から始まり夏には浅間一帯、上高地の焼ケ岳から日本各地をめぐる長大なものとなった。 本作品の撮影監督にリヒアルド・アングストが選ばれその助手に円谷監督が選ばれかねてから研究中であった スクリーン・プロセスによる合成シーンやミニチュアワークを中心とした特撮がフォローとして使われることと なった。
この円谷式スクリーン・プロセスは昭和10年の「かぐや姫」から使われているが更に本作の為に改良したスクリーン・プロセスにて本作品の合成シーンが作られたのだ。
それは60カット撮影されて都合20カットが使用されるほど技術的にもしっかりしたシーンであり初めて多用された作品である。
撮影日数は8ヶ月かかり年末にはアフレコの仕上げをえて1937年1月に完成した。
公開前夜には皇族を交える大掛かりなワールドプレミアを帝國劇場で開催し2月4日にファンクバージョン、 11日に伊丹バージョンを公開しメガヒットを記録するほどのヒット作品となったが当時の批評は 何かにつけてファンクバージョンが優先され伊丹バージョンはそれほど注目されなかったのが惜しい。
ところで本作品も合作映画のつきものとして日、ドイツの間で価値観や技術的なトラブルが絶えなかった。
アングルトの撮影方針と日本のラボプロセスが噛み合わなかったためにプリントのクオリティーに問題が 発生したり録音も同様でセリフが明瞭に聞こえなかったりと初めての合作映画の難しさを露呈する結果となったが 唯一、円谷監督によるスクリーンプロセスはファンク監督からも絶賛され挙句には円谷監督が設計した スクリーンプロセスの装置を欲しいという話にまで発展するほどの見事さであった。
というのもドイツの映画会社にはそのような スクリーンプロセスの機械が無い為だったそうだがそれほど本作品の合成シーンは見事なものだったのだ。
そして原節子は本作品を機会に日活を退社、本作品のドイツ公開の舞台挨拶のためにテラフィルムから招待 され1ヶ月ドイツ語を学んでから3月深夜に出発し26日にベルリンに到着した。
そして帰国後、このJ.Oと契約し後の大女優になる契機を掴んだのだった。
円谷監督もまたここにまた一歩前進を果たしたのである。
本作品での特撮シーンではスクリーンプロセスが有名だが物語後半では火山噴火のミニチュアシーンが 使われており噴火の火薬のスケール感が出てしまったのは残念とはいえ民家倒壊などのカット割の妙技 でドラマを盛り上げることに成功し後の「ラドン」で更に洗練されたものになっていく。
さすがに現在の目で見ると古めかしいのは否めないが円谷特撮を語る上で欠かせない作品である。
スタッフ&キャスト
音楽  山田耕作
作詞  西条芭蕉、北原白秋
脚本、監督 アーノルド・ファンク
共同監督  伊丹万作
特殊技術協力  円谷英二
撮影  リヒアルド・アングスト
キャスト
早川雪洲、小杉勇、原節子、市川春代、ルート・エヴェラー
製作、ドイツ・テラフィルム、J.Oスタジオ(東宝)、東和商事
モノクロスタンダード、公開  1937年2月4日(ファンク版)、1937年2月11日(伊丹版)