昨日、NHKBSで「いちご白書」を放映していた。

1970年の映画で、日本の学生運動の「70年安保」ベトナム反戦の時代の記念的映画の一つだろう。

懐かしくて、録画して見た。

 

なにより主題歌が流れ出すと、当時の大学のキャンパスが脳裏によみがえって来た。

 

映画で、主人公が「なぜ、いちごなんだ?」と友人に聞くと、「大学が、学生の主張は『いちご』が好きだと言っているの同じだ、と言ったのだ。」

「俺はいちごが好きだけど?(問題か?)」と主人公が不思議に思うと、友人は「それは多分、いちごの色が『赤』いからさ」という。

 

そうなんだ、政府に対する批判=「赤のレッテル張り」=共産主義者の主張=暴力革命=テロリストの、いわゆる反共主義イデオロギーの図式がマスコミなどを通してしっかりと植え付けられているわけだ。

 

アメリカは自由主義の国だと言うが、ずっと不思議に思っているのは、その自由には人種差別も自由なんだとでも憲法で規定されているのか?と思うほど、有色人種に対する差別意識は普通に今でも存在しているということだ。ムキー

 

一体どういう学校教育しているんだろうね。

 

 

映画でも、主人公が警備にあたる警官と話をするが、警官が露骨に黒人に対する差別意識を口にすると、主人公は「糞野郎」と罵っていた。

 

*書き忘れていたので、追記しておくけど、半世紀前の話です。

 携帯どころかパソコンももちろんない時代。

 テレビと新聞、週刊誌が情報入手の手段だった時代です。

 意見を表明しようとすれば、直接動くしかない。

 私もゼミの旗をもって、ベトナム反戦のデモ行進をやりました。       

 

 

映画の内容については、以下から参照されたい。

 

 

ちょうど、今朝の朝ドラで、日本国憲法の制定が流されていたが、

 

第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない

 

という条文の素晴らしさを、改めて感じた。

 

この憲法は、アメリカの押し付けだとかいう人もいるが、当時の人間には新しすぎて押し付けに思えたにしろ、今考えれば良いものは良いのでは?

それよりも、この憲法を押し付けたアメリカに、この条文は無いんだろうね?

(マジで知らんけど、実態がそうではないので調べる気もありません。)

 

 

もともと移民の国でありながら、人種や民族に対する差別意識がなぜ無くならないのか?

結局は、「支配階級の思想が支配的だ」というマルクスの言葉のままということか?

 

ユダヤ資本と結びついたアメリカの支配層の白人達には、それ以外の人種や民族は支配される側のそれだけの価値しかない人種に過ぎないのだろう。

そして、そこには多分宗教的な「神に選ばれた民族」と言う選民思想が、支配者側の精神的なバックボーンとして、幼いころから植え付けられているように思える。

そうでなければ、差別され貧困にあえぎ、戦争では虐殺される側の人々を、冷酷に眺めていられる神経が理解できない。

(この選民思想の問題については、先にブログで書いた。)

 

 

今朝、ちょうど「いちご白書」と同じ1970年に作られた映画「ソルジャーブルー」について書かれたブログが目についた。

 

 

(以下上記ブログより引用)

 

『ソルジャー・ブルー』は、1864年にサンド・クラークで起った、500人の先住民が虐殺された実話を基にしています。この映画の公開当時は、ベトナム戦争の真っ只中。白人騎兵隊と、彼らに無惨に狩られるインディアンを、米軍とベトナム人に重ねたわけですが、2024年の今、この映画を観れば、そこにはガザでまさに「虐殺」に等しい行為を思い浮かべてしまいます。この映画が作られてから50年以上経って、まだ想起させるようなことが現実に起こっているとは……。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上

 

私も、全く同じ気持ちです。