千人以上の被爆者の声を録音したことで知られる元長崎放送記者・伊藤明彦をモデルとし、伊藤明彦の著書『未来からの遺言 - ある被爆者体験の伝記』を原案としているフィクションとのこと。
1972年高度経済成長に沸く日本が舞台。
長崎県の放送局出身のジャーナリスト・辻原保(モデル・伊藤明彦)は、日本全国に散らばるヒロシマ・ナガサキの被爆者の声を求めて重い録音機を抱えて被爆者の語りをテープに残している。
1972年、戦後27年の映画の背景には当時9歳だった私の記憶に残る場面が多かった。
共同炊事場、共同トイレ(と思われる)久野のアパート。
子どもの頃はこんなアパートが沢山あったし、私の住んでいた社宅もトイレは共同だった、内廊下だったけれどもね。
原爆の傷跡が、当時まだこんなに残っていたとは…9歳にはわからなかった。
原爆のことを学校で習ってからは戦争に怯え、戦争に関する映像や本から逃げまくっていた私。
27歳の時に、ふと心を入れ替えて?広島原爆資料館を見に行って…気持ちが180度変わった。
【知らないで済ませてはいけない】
それからは積極的に太平洋戦争に関わる本を読み、映像や写真を見て【核なき世界】を目指す人たちのひとりになりたいと思うようになった。
【威嚇のために核を持つ必要】を説く人がいる、けれど威嚇して核兵器は減ったのかと言えば真逆ですね、核兵器の数や保有国は増えている。
広島が世界初の被爆地、長崎が最後の被爆地、その気持ちを地球人全てに持ってほしい、強く願う。
辻原は被爆者団体に足を運び、体験を語ってくれそうな人たちの所へ行く、その費用のために夜はキャバレーで下働きをしている。
ある時、そこから紹介してもらった久野和平と出会い、長期の録音に取り組む。
久野は10歳で被爆し、重度の原爆症に苦しみながら生活保護で暮らしている。
きょうだいで生き残ったのは姉と自分だけとのこと。
被爆した時から始まり、姉が探してくれたこと、長崎医大から東京大に移って治療を受け、這うことしかできなかったのが歩けるようになった、姉がいつも励ましてくれた、姉は20歳の時に白血病で死んだ…
しかし、なにか久野の言葉に違和感を覚えて行くようになった辻原。
ある時、鹿児島の被爆者の声を聞きに行った時にすべての被爆者から証言を拒否され、福岡に寄り久野の戸籍謄本を見る。
事実と違う話をしていたのはなぜなのか…
でも、久野にとって語ったことはすべて【本当のこと】ただそれを自分が体験したのではなく、今までの年月の中、他の被爆者たちの体験を語っていたのだとわかった。
モデルとなった伊藤明彦氏のラジオ記者時代の実物はこちら。⬇️
絶対悪は戦争、そして核
声を残してくれてありがとう、もうずいぶん前だけど平和のための戦争展2009を見に行った時にも感じた。
あれからももう17年経つんだ…またいつか行こう。



