2013年の話ではありますが、当時の美智子皇后(現上皇后)が79歳の誕生日を迎えられた際に宮内庁のインタビューに応じた中で、私の琴線に触れた部分が有りましたのでちょっと紹介します。

 

それは…かつて旧帝国において憲法案が思案される中で出てきた民間の憲法案、五日市憲法についてです。

彼女はインタビューにおいて五日市憲法についてこう言及しています。

 

5月の憲法記念日をはさみ,今年は憲法をめぐり,例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。 
主に新聞紙上でこうした論議に触れながら,かつて,あきる野市の五日市を訪れた時,郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。 
明治憲法の公布(明治22年)に先立ち,地域の小学校の教員,地主や農民が,寄り合い,討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で,基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務,法の下の平等,更に言論の自由,信教の自由など,204条が書かれており,地方自治権等についても記されています。 
当時これに類する民間の憲法草案が,日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが,近代日本の黎明期に生きた人々の,政治参加への強い意欲や,自国の未来にかけた熱い願いに触れ,深い感銘を覚えたことでした。 
長い鎖国を経た19世紀末の日本で,市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして,世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。

 

 

彼女の言葉通り、五日市憲法はこの時期において基本的人権を含め、国民の権利を保障する事を提唱した非常にレベルの高い憲法であった。薩長政権が作った旧帝国憲法よりも遥かに今の日本国憲法に近いものであった、と言えるだろう。

 

しかし、薩長政権が作った大日本帝国憲法…それは自分たちが天皇の名の下で国を欲しい侭にするのに都合のいい憲法であった。

奴らにとっては基本的人権の保障など自分達による国家統治において極めて邪魔だった、という事なのです。