当の良秀は稍(やゝ)離れて、丁度御縁の真向に、跪(ひざまづ)いて居りましたが、これは何時もの香染めらしい狩衣に萎(な)えた揉烏帽子を頂いて、星空の重みに圧されたかと思ふ位、何時もよりは猶小さく、見すぼらしげえました。その後に又一人、同じやうな烏帽子狩衣の蹲(うづくま)つたのは、多分召し連れた弟子の一人ででもございませうか。それが丁度二人とも、遠いうす暗がりの中に蹲つて居りますので、私のゐた御縁の下からは、狩衣の色さへ定かにはわかりません。
時刻は彼是真夜中にも近かつたでございませう。林泉をつゝんだ暗がひつそりと声を呑んで、一同のする息を窺つてゐると思ふ中には、唯かすかな夜風の渡る音がして、松明の煙がその度に煤臭い匂を送つて参ります。大殿様は暫く黙つて、この不思議な景色をぢつと眺めていらつしやいましたが、やがて膝を御進めになりますと、
「良秀、」と、鋭く御呼びかけになりました。
良秀は何やら御返事を致したやうでございますが、私の耳には唯、唸るやうな声しか聞えて参りません。
「良秀。今宵はその方の望み通り、車に火を<かけて見せて遣はさう。」
大殿様はかう仰有つて、御側の者たちの方を流(なが)し眄(め)に御覧になりました。その時何か大殿様と御側の誰彼との間には、意味ありげな微笑が交されたやうにも見うけましたが、これは或は私の気のせゐかも分りません。すると良秀は畏(おそ)る畏(おそ)る頭を挙げて御縁の上を仰いだらしうございますが、やはり何も申し上げずに控へて居ります。
「よう見い。それは予が日頃乗る車ぢや。その方も覚えがあらう。――予はその車にこれから火をかけて、目のあたりに炎熱地獄を現ぜさせる心算(つもり)ぢやが。」
大殿様は又言を御止めになつて、御側の者※(「目+旬」、第3水準1-88-80)(めくば)せをなさいました。それから急に苦々しい御調子で、「その内には罪人の女房が一人、縛(いまし)めた儘、乗せてある。されば車に火をかけたら、必定その女めは肉を焼き骨を焦して、四苦八苦の最期を遂げるであらう。その方が屏風を仕上げるには、又とないよい手本ぢや。雪のやうな肌が燃え爛(たゞ)れるのを見のがすな。黒髪が火の粉になつて、舞ひ上るさまもよう見て置け。」
大殿様は三度口を御噤(おつぐ)みになりましたが、何を御思ひになつたのか、今度は、声も立てずに御笑ひなさりながら、
「末代までもない観物ぢや。予もここで見物しよう。それ/\、簾(みす)を揚げて、良秀に中の女を見せて遣さぬか。」
仰(おほせ)を聞くと仕丁の一人は、片手に松明(まつ)の火を高くかざしながら、つか/\と車に近づくと、矢庭に片手をさし伸ばして、簾をさらりと揚げて見せました。けたゝましく音を立てて燃える松明の光は、一しきり赤くゆらぎながら、忽ち狭い※(「車+非」、第4水準2-89-66)(はこ)の中を鮮かに照し出しましたが、※(「車+因」、第4水準2-89-62)(とこ)の上に惨(むごた)らしく、鎖にかけられた女房は――あゝ、誰か見違へを致しませう。きらびやかな繍(ぬひ)のある桜の唐衣(からぎぬ)にすべらかし黒髪が艶やかに垂れて、うちかたむいた黄金の釵子(さいし)も美しく輝いて見えましたが、身なりこそ違へ、小造りな体つきは、色の白い頸(うなじ)のあたりは、さうしてあの寂しい位つゝましやかな横顔は、良秀の娘に相違ございません。私は危く叫び声を立てようと致しました。
その時でございます。私と向ひあつてゐた侍は慌(あわたゞ)しく身を起して、柄頭(つかがしら)を片手に抑へながら、屹(きつ)と良秀の方を睨みました。それに驚いて眺めますと、あの男はこの景色に、半ば正気を失つたのでございませう。今まで下に蹲(うづくま)つてゐたのが、急に飛び立つたと思ひますと、両手を前へ伸した儘、車の方へ思はず知らず走りかゝらうと致しました。唯生憎前にも申しました通り、遠い影の中に居りますので、顔貌(かほかたち)ははつきりと分りません。しかしさう思つたのはほんの一瞬間で、色を失つた良秀の顔は、いや、まるで何か目に見えない力が、宙へ吊り上げたやうな良秀の姿は、忽ちうす暗がりを切り抜いてあり/\と眼前へ浮び上りました。娘を乗せた檳榔毛の車が、この時、「火をかけい」と云ふ大殿様の御言と共に、仕丁たちが投げる松明の火を浴びて炎々と燃え上つたのでございます。